2019年10月17日 (木)

2019年台風19号(ハギビス)の被害の甚大さ 鉄道関係(私鉄)

今回の台風19号の被害の甚大さから、気象庁は1977年の沖永良部台風以来42年ぶりに命名するというニュースがありました。これは災害程度の大きい台風に関して伝承の必要性等から命名されるもので、基準は2004年以降、「損壊家屋1千棟以上、浸水1万棟以上」と定められたものだそうです。今回の場合、既に死者・行方不明者合わせて80名を超えており、浸水家屋は1万棟を超える可能性があるので、来年5月までに「令和元年〇〇台風」と命名され、〇〇には地名が入れられるそうです。

過去の命名台風には、1954年洞爺丸台風(第15号、国際名(以下同じ)Marie)、1958年狩野川台風(第22号、Ida)、1959年宮古島台風(第14号、Sarah)、伊勢湾台風(第15号、Vera)、1961年の第2室戸台風(第18号、Nancy)、1966年の第2宮古島台風(第18号、Cora)、1968年第3宮古島台風(第16号、Della)、そして1977年沖永良部台風(第9号、Babe)などがあります。

台風の惨禍を忘れないために命名し、歴史に名前を留めるのは重要かと思いますが、一方で2000年から北西太平洋もしくは南シナ海で発生した台風に関しては日本を含む14か国が参加する台風委員会により、それぞれの台風に従来の米国の人名からアジア各国の言語に由来する140個の名前が順番に付けられ、台風19号にはハギビス(フィリピンによる命名、タガログ語?Hagibis:素早いの意)と命名されています。

この140の命名に関してはWEBサイトの記事ではよく見るのですが、日本のマスコミ報道(テレビやラジオのニュース、天気予報など)では殆ど聞きません。それぞれの名前が聞きなれない言語に由来するものなのかも知れませんが、なにかこういうところに、日本がアジアの国々を軽視している、アジアから浮いているいると感じるのは勘ぐりすぎでしょうか(笑)(尤も、他の13か国でこれらの命名がどこまでそれぞれの国民に浸透しているかも、気になるところですが)。

気象庁のサイトの「台風の番号の付け方と命名の方法」の説明では「・・・大きな災害をもたらした台風などは、台風委員会加盟国からの要請を受けて、その名前を以後の台風に使用しないように変更することがあります。・・・」と書かれており、敢えて(沖永良部台風以来となる)従来のような命名をすべきなのかとも思う次第です。日本の気象庁が台風委員会による命名をもっとニュースや気象情報等で流して、国民に広めることで、アジアの他の国々とも一体感が生まれ、昨今の韓国との無意味なコンフリクトの解消にも役立つと感じるのですが。

さて、今回は関東地方の私鉄の運行に及ぼした台風19号の影響です。

関東地方の私鉄は
東武鉄道、西武鉄道、東京メトロ、京成電鉄、京王電鉄、東京急行電鉄、京浜急行電鉄、小田急電鉄、横浜高速鉄道、関東鉄道、横浜市交通局、相模鉄道、伊豆急行、ひたちなか海浜鉄道、上信電鉄、上毛電鉄、銚子電鉄、山万、野岩鉄道、わたらせ渓谷鉄道、鹿島臨海鉄道、真岡鐡道、舞浜リゾートライン、ゆりかもめ、首都圏新都市鉄道、埼玉新都市交通、富士急行、横浜シーサイドライン、秩父鉄道、新京成電鉄、北総鉄道、京葉高速鉄道、埼玉高速鉄道、東京臨海高速鉄道、流鉄、箱根登山鉄道、千葉都市モノレール、江ノ島電鉄、小湊鉄道、いすみ鉄道、伊豆箱根鉄道、東京モノレール、湘南モノレール、多摩都市モノレール、芝山鉄道と45社、109路線ありますが、
WEBサイト、あるいはSNS(TWITTER)等による運行情報から、おおむね台風が過ぎ去った10月13日始発以降の運転状況を見てみると、

1.東武鉄道 2019年10月14日 9:28 pm発行のWEBサイト情報
日光線の南栗橋駅以北エリアは、静和~新大平下駅間の線路砕石流出と、北鹿沼~板荷駅間の築堤の崩壊のため、栗橋~栃木駅間と新鹿沼~下今市駅間で運転見合わせている。復旧には相当の日数を要する見込み。南栗橋~栃木駅間と新鹿沼~下今市駅間でバスによる代行輸送を実施するものの、おおよそ1時間に1本程度の運行となるなど時間がかかり、混雑が予想される。特急は大幅に減便する。SL大樹は10月14日に通常運転を再開した。
伊勢崎線久喜駅以北エリアでは、佐野線の渡瀬~田島駅間の線路砕石流出のため、同区間の運転を見合わせる。復旧には相当の日数を要する見込み。佐野線以外は平常通り運行をしている。特急は、14日には下り線の「リバティりょうもう43号」、「りょうもう47号」、上り線の「りょうもう12号」は運休しており、特急券と座席指定券は、押上・寄居駅、無人駅以外の東武鉄道各駅で無手数料で払い戻しを受け付けている。
2.京王電鉄 運行情報TWITTER
【動物園線 運転見合せ】原因:線路への土砂崩壊の復旧作業/見合せ区間:上下線/振替輸送:実施中/運転再開見込:本日中に復旧予定
【動物園線復旧見込みについて】現在、流入した土砂の撤去、大型土嚢の設置、線路内の砕石入れ替え作業を続けており、10月16日(水)中の復旧を目指しております。なお、状況によっては予定を変更する場合がございます。振替輸送をご利用ください。

3.小田急電鉄 運行情報TWITTER
2019年10月15日10時03分 不通区間が生じております。 (渋沢-新松田間の線路脇の河川が増水し、護岸コンクリートが幅約20メートルにわたって崩れ、電力柱が傾いたため)
2019年10月15日15時59分 特急ロマンスカーの終日運転見合わせについて。
2019年10月16日00時46分 小田急線は平常どおり運転しております。

と線路のトラブルに見舞われた路線があり、一番被害が大きいのは箱根登山鉄道で箱根周辺は今回の台風により、日本全国の観測点史上最大の922.5ミリの雨が降り(平年の10月雨量は330mmほど)、宮ノ下―小涌谷間で、土砂崩れで陸橋の一部が渓谷に押し流され、陸橋の再建・線路の敷設を余儀なくされるばかりか、陸橋より高い傾斜地ののり面補強工事も必要となり、年内の全線復旧は無理と考えられています。箱根登山ケーブルカーに関しては16日から運転を再開いたしました。東武日光線の被災とともに関東地方の観光地は紅葉シーズンを前に大きな打撃を被っています。

1001-180820
2018/8/20 大平台 交換する1001ベルニナ号

これら以外の各社の路線は13日日曜日の始発から、ダイヤの乱れはあるもののおおむね平常通り運行をしています。

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2019年10月16日 (水)

2019年台風19号(ハギビス)の被害の甚大さ 鉄道関係(JR東日本)

2019年10月5日土曜日に北緯15度、東経163度付近の海上で発生した台風19号(ハギビス)は北緯20度東経140度付近から太平洋を時速30㎞から35㎞の速度で北上、10月12日土曜日午後7時前に伊豆半島に上陸、午後8時半過ぎに小田原市、午後10時前に川崎市、10時40分ごろ、つくば市、11時40分水戸市、13日午前2時40分相馬市、3時40分ごろ、石巻市、5時40分ごろ、宮古市付近を通過し、正午過ぎに温帯低気圧に変わりましたが、13日の記事でも触れたように記録的な大雨により、7県の47河川、66か所の堤防の決壊を引き起こし、10月15日昼時点で67名の死者、19名の行方不明者を出す大災害をもたらしました。

鉄道に関する被害も甚大で、JR東日本管内では以下の被害を発表しています(台風19号によるJR東日本管内の設備等の主な被害状況について

1.北陸新幹線 長野新幹線車両センターの浸水
同センターは長野市大字赤沼(北しなの線豊野駅の南南西800m位の場所)にあり、直線距離で1㎞離れた場所に千曲川が流れています。
今回、千曲川の氾濫により、同センターが水没し、基地に停泊中だった北陸新幹線車両10編成、JR東日本E7系8編成(現時点でF1,F2,F13が含まれている)とJR西日本W7系2編成(現時点ではW2が含まれている)が水没しました。北陸新幹線はE7,W7系は30編成でその1/3が今回の水没で被災し、現時点ではこのまま廃車となるか、修理して復活できるかは調査もできていないので不明とのことですが、甚大な被害であることは事実で、北陸新幹線運用にも大きな影響が出ており、まず、長野~上越妙高駅間が不通となっており、運転再開の見込みが立っていません。富山~金沢間の「つるぎ」は通常運転しているものの、「かがやき」「はくたか」に関しては運転再開の見込みすら立っていない状況です。金沢~糸魚川間に臨時の「はくたか」が設定されています(情報)。

E7-f1-160917
2016/9/17 E7系F1編成 大宮
E7-f2-150503
2015/5/3 E7系F2編成 東京
E7-f13-150712-2
2015/7/12 E7系F13編成 東京
W7-w2-160917
2016/9/17 W7系W2編成 大宮


2. 中央本線 梁川~四方津間土砂流入
中央本線の下り列車は四方津駅を出発するとすぐトンネルに入り、駅間の2/3を過ぎた辺りでトンネルを抜けますが、このトンネルを抜けた先で線路に土砂が流入し、不通となっています。高尾~大月間の上下線で運転が見合わせ状態となっており、復旧の見込みは立っていません。

141206
四方津駅 高尾よりホーム端から甲府方を見る

3. 両毛線 太平下~栃木間 永野川橋梁 橋台背面流失
両毛線の栃木と太平下のほぼ中間を流れる永野川の増水で橋梁が大きく破損したもので、濁流により、線路はゆがみ、架線柱も倒れています。足利~小山間の上下線で運転見合わせ状態で、小山~栃木間は16日始発から運転を再開する予定ですが、足利~岩舟間は数日、岩舟~栃木間は1か月程度時間を要するようです。

4. 水郡線 袋田~常陸大子間 第六久慈川橋梁 橋桁流失
水郡線のこの区間も久慈川の流れでできた谷間を川沿いに走る急峻な区間ですが、久慈川の増水で第六久慈川橋梁がやられました。常陸大宮~郡山間が不通となっており、再開の見込みも立っていないようです。


5. 武蔵小杉駅構内の冠水
台風による大雨で駅周辺が浸水し、電源設備が故障、エスカレータ6か所7機とエレベータ1基が使用不能となりました。タワーマンションが立ち並ぶ新南改札口では自動改札口も使用不能となっており、復旧の見通しは立っていないとのことです。

6. 吾妻線
長野原草津口~大前間で線路に土砂が流入し、架線柱の倒壊もあり、中之条~大前間が不通となっています。16日始発から中之条~長野原草津口間は運転を再開するそうですが、長野原草津口~大前間に関しては復旧まで相当な日数を要するとのことです。

7. 小海線
滑津~北中込間で路盤がえぐられており、小諸~野辺山間は当面運転見合わせとのこと。

台風による鉄道関係の被害といえば、昨年の西日本大豪雨による山陽本線等の被害等が記憶に新しいですが、私が一番印象に残っているのは何といっても1982年8月に静岡県を襲った台風10号による東海道本線富士川橋梁の流失事故です。

今回の各地の被災で多くの人命が奪われ、また多くの方が被災され、避難を余儀なくされています。まずは行方不明者の捜索、そして被災された方々が通常の生活に一刻も早く戻ることができるようお祈りいたします。

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2019年3月 2日 (土)

2018年10月の関西旅行 信楽高原鐡道 列車衝突事故

信楽高原鐵道に触れる上で1991年5月14日に発生した事故に関して避けて通ることは出来ません。

陶芸の里、信楽町では4月20日から5月26日までの予定で「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」が開催され、信楽高原鐵道では線路容量を遙かに超える来場者輸送に追われていました。イベント実行委員会は約1年前の1990年3月に信楽高原鐵道とJR西日本に対して鉄道による人員輸送の協力を要請し、信楽高原鐵道は旧来の設備を2億円かけて改修し、路線の中間部に小野谷信号所を設け、運行本数を倍増させる工事を実施しました。

Img_0928再掲ですが、信楽方面からみた小野谷信号所

さらに信楽高原鐵道では閉塞方式を票券閉塞式から特殊自動閉塞式に変更しました。しかしCTC(列車集中制御装置)は設置せず、信号や分岐器の動作は列車の運行によって決まるシステムでした。貴生川と信楽間で列車が行き違えるのは無人の小野谷信号所のみでした。また信号機のシステムは両端駅の貴生川、信楽の出発信号機が進行状態になり、列車がそれぞれ出発して、信号場に到着すると、反対側の閉塞区間の進行が許され列車が交換できるシステムでした。

Dsc06483 2018/10/6 信楽

駅の一角に1991年5月14日の事故に関するコーナー(セーフティしがらき 1997年4月30日にオープン)があり、臨時快速のHMなど事故関連のものが展示されています。

Dsc06485
事故当日、信楽駅から貴生川に向かって出発しようとした534DSKR200形4両編成)が出発信号機を青信号にしようとSWを操作しても赤信号のままで切り替わりませんでした。列車は正しく信楽駅に到着しているにも拘わらず、小野谷信号所~信楽間の運転表示は「下り」のままで上り(貴生川方面)に切り替わりませんでした。それまで何回か発生していた信号トラブルを疑って、代用閉塞である指導通信式で、指導員を添乗させ、11分遅れで発車させました。

本来、代用閉塞を行う際は閉塞区間の両端に駅員を配置し、対向列車の閉塞区間への進入を抑止しなければいけませんが、係員が小野谷信号所に自動車で到着する前に534Dを発車させていました。

Dsc06489

Dsc06484
一方、貴生川からは京都発信楽行き、JR西日本の直通臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(キハ58系3両編成)が乗り入れており、小野谷信号所の信号が青なのでそのまま小野谷~信楽間の閉塞区間に進入し、534Dと正面衝突してしまいました。

この事故で先頭車キハ58 1023(1967年製造)が前部が押し潰され、全長の1/3が上方に折れ曲がり、SKR200形先頭車は2両目とキハ58形に挟まれ原形を留めない程押し潰されました。JR西日本側は乗客30名、信楽高原鐵道側は乗客8名、乗員(運転士と添乗の職員の4名)計42名が犠牲となり、614名が重軽傷を負う大惨事となりました。特に臨時快速列車は定員の2.8倍の超満員であったため、人的被害が甚大なものとなりました。

事故の遠因となった信号トラブル(信楽駅から上り貴生川に向けて出発できない)は信楽高原鐵道とJR西日本が近畿運輸局の認可を得ずに信号制御の改造を実施し、両社間で意思疎通が行われていなかったことが原因とされました。さらに信号トラブルが発生していたにも拘わらず、それを運輸局に報告せず、またトラブルを乗務員にきちんと周知していませんでした。

代用閉塞時における駅員の配置等、異常時の運用方法に関する人的訓練が信号所設置で閉塞方式が変化してからの時間の短さなどもあり十分に行われず人的ミスを起こしてしまったことも事故に繋がりました。

第三セクター鉄道として経営陣が鉄道に関する知識に疎く、運行保安に対しての意識、知識が欠如しており、信号システムに関しても施工業者に丸投げしていたことも今回の事故の誘因となりました。

この事故以降、それまでは航空機事故などで設置されていた事故調査委員会が鉄道分野でも設けられるようになりました。また、事故直後から全国の単線区間での運転方式が見直され、JRから第三セクター線への乗り入れ運転が有田鉄道、鹿島臨海鉄道などで中止となりました。

小野谷信号所は事故を契機に使用中止となり、特殊自動閉塞方式も従来のスタフ閉塞として1991年12月8日に運行が再開されました。現在も同信号所は使われておりません。

「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」は5月26日までの会期を残していましたが、事故翌日から休止となり、そのまま終了となりました。

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2016年7月29日 (金)

下山国鉄総裁追憶碑を訪ねる その2

前回のこのシリーズでは1949年7月5日から6日にかけて起こった国鉄下山総裁怪死事件について触れました。

 この事件については前の記事で書いたように中学生の頃、図書館で偶然、新聞の縮刷版を見ていて当時の新聞記事に巡り合い、その後、いろいろ書籍を読んで事件の全貌を知りました。

 遺体発見現場となった五反野付近の常磐線を東武スカイツリーラインが超えるあたりは頻繁に通過するもののなかなか降りる機会がなく、追憶碑も訪れておりませんでしたが、今年6月に東武線の撮影で五反野駅を訪れた際に思い立って行ってみることにしました。

160625 2016/6/25

前回の記事の写真のように五反野駅は高架下に改札口があり、改札口を出て、右側に向かいます。高架線に沿った道を小菅方向に進みます。すると五反野親水緑道なる遊歩道のような道に入ります。以前、日暮里から乗車した日暮里舎人ライナーの終点に見沼代親水公園がありましたが、こちらは親水緑道です。

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もともとは五反野駅周辺と小菅刑務所、現在の東京拘置所を結ぶ用水路を親水公園として水に親しむ遊歩道にしたもののようです。

水路には鯉やザリガニなどの姿も見えました。

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さらに進むと庚申塔もあり、安永9年(1780年)の銘だそうで、

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足立区教育委員会による説明板も整備されています。

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石碑には出羽三山の山の名が刻まれています。

やがて、カーブしてゆく東武線と離れ、常磐線をクロスする方向に水路に沿って進むと

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常磐線の高架線脇に下山国鉄総裁追憶の碑があります。

事件発生から2年後、3周忌の1951年7月に事件発生現場付近に下山定則氏事業会により建立されました。さらに1970年9月、千代田線建設工事に伴う移転がなされ、加賀山元国鉄総裁の揮毫となる、本石碑に取り替えられました。さらに1991年5月、常磐線荒川橋りょう改良工事に伴い、本位置に移設とのことです(情報はこちら)。

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赤御影石製で生前のお写真も貼ってあり、花が手向けられていました。

この常磐線と緑道がクロスする場所はかつては弥五郎新田踏切といったそうで、事件当時の風景が「下山事件資料館」(下山事件ギャラリー)にあります。

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そのまま緑道伝いに進むと東京拘置所前に出ます。

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小菅側の緑道の入り口です。

160625_6 ここから、東武線の高架を目指して行けば小菅駅前にでます。
9月号の鉄道ファンに1960年代の小菅駅の写真が載っていますが、まさに隔世の感があります。

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そして小菅駅のホームからは新東京名所のスカイツリーもよく見えます。と言いつつ、まだ訪問はしていませんが。

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2016年7月 6日 (水)

下山国鉄総裁追憶碑を訪ねる その1

下山事件とは

太平洋戦争が終結し、日本が連合国の占領下にあった194976日未明の午前030分ごろ、前日朝の出勤途上から消息が分からなくなっていた国鉄初代総裁下山定則氏が足立区五反野付近の東武伊勢崎線が交差する常磐線線路上で轢死体として発見されました。今からちょうど67年前のことです。

160625 2016/6/25 下山国鉄総裁追憶碑が脇に設置されている常磐線高架線付近(手前が東京拘置所、奥が五反野駅方向)五反野親水緑道と常磐線が交差する場所です。

かつてはここは弥五郎新田踏切だったそうですが(当時の写真はこちらに)、常磐線の高架、複線化、さらにTXの開通で様子は大きくかわりました。碑も最初は上の写真の左の方の遺体発見現場近くに設置されたそうですが、工事などで移設されたそうです。

下山は1925に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、鉄道省に入省、企画院技師、技術院第4部長、鉄道総局業務局長補佐、名古屋鉄道局長、東京鉄道局長を歴任し,19484に運輸事務次官に就任、194961の日本国有鉄道発足で初代総裁に就いたばかりでした。

1949当時、中国大陸では蒋介石率いる国民党と毛沢東らが率いる共産党の内戦において共産党軍の勝利が決定的になっており、朝鮮半島では北緯38度線を境に共産政権と親米政権が一触即発の状況で対峙していました。日本ではアメリカの占領下政策が民主化から反共の防波堤に転換しつつあるときで、ドッジ・ラインによる緊縮財政政策が実施され、61には行政機関職員定員法が施行され、全公務員で28万人、日本国有鉄道では10万人近い人員整理が行われようとしていました。

123に行われた第24回衆議院総選挙では吉田茂率いる民主自由党が単独過半数の264議席を確保しましたが、日本共産党も4議席から35議席に躍進、吉田内閣の打倒、人員整理に対して頑強な抵抗を示していました。下山総裁は人員整理の当事者として労働組合との交渉の前面に立ち。事件前日の74には37千人の従業員に対して第一次整理通告を行っていました。

75日朝午前820ごろ、大田区上池台の自宅を公用車ビュイックで出発した下山は買い物の用事があるので日本橋の三越に行くよう指示、到着したものの開店前だったため、時間をつぶすため、国鉄本社のある東京駅前に行き、千代田銀行〈現、三菱UFJ銀行〉などに立ち寄り、937分ごろ、「5分くらいで戻るから待っていてくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入り、そのまま消息を絶ちました。

一方、国鉄本社では人員整理を巡り、局長会議が午前9から予定されていましたが、下山が出勤しなかったため、自宅に連絡、「普段通り公用車で出かけた』との連絡で、大騒ぎとなり、警察に連絡、失踪事件として捜査が開始されました。

160625 2016/6/25 五反野駅改札口

失踪後の足取りに関する目撃情報は

・三越店内 数名の人物ともに目撃

・営団地下鉄銀座線 浅草行き列車内で目撃

1340分過ぎ、五反野駅改札で改札係と言葉を交わす

14時から17時、五反野駅そばの末広旅館に滞在

18時から20時、五反野駅から轢断地点に至る東武伊勢崎線沿線で服装背格好のよく似た人物の目撃情報

轢断した列車は現場を020分ごろ通過する常磐線下り869列車、D51651号機牽引。

沖田祐作氏の機関車表データを調べてみると

D51651     日立製作所笠戸工場=1469           1941-06-04 S77.60t1D1T(1067)
   車歴;1941-06-04 製造→ 納入;国鉄;D51651→ 配属;東京局→1941-06-15 配置;水戸→
      1950-03-14 煙突取替→1959-09-22 平→1965-03-28 糸崎→1965-09-13 新見→
      1965-10-21 後藤工場集煙装置取付:左側換気装置取付→1972-09-16 廃車;新見

1941年6月、日立製作所笠戸工場で落成しており、新製配置は東京局、水戸機関区で常磐線が任地でした。1965年に糸崎、新見へ移り、晩年は伯備線で活躍し、1972年に廃車となっています。伯備線時代の写真はこちらに。

同機関車は19431026、土浦駅桜川橋梁付近で発生した列車衝突事故を起こした機関車で同事故は死者110名、負傷者107名を出す、重大事故でしたが、戦時中であったこともあり、大きく報道されませんでした。 

<常磐線土浦駅列車衝突事故> *************************************

貨第294列車は1840分頃土浦駅上り1番線に到着、入換のため貨車41両を持ち引上線に引上げたところ、信号掛が転轍器を異方向に転換したため異線に進入、上り本線から分岐する転轍器を割出して1848に進路を支障しました。
18
5130、貨第254列車(D51651号機牽引)が場内信号機の進行指示によって進行したため支障車両に衝突、牽引機関車は貨車に食込み、直後の貨車14両は脱線転覆し、下り本線を支障しました。

E531_k422_070701 2007/7/1 土浦駅から事故現場方向 

1854、下り本線に進入した客第241列車は、貨第254列車に接触し脱線顛覆。客車2両は脱線傾斜し、3両目は桜川橋梁上から脱線傾斜、4両目は桜川に転落水没しました。5両目以下は橋梁手前で転落は免れました。

3_140601_15 2014/6/1

桜川鉄橋脇に建てられている土浦事故の慰霊碑

事故の様相は196253に発生した常磐線三河島列車多重衝突事故とよく似ており、土浦事故の検証がしっかり行われ、対策がなされていたら、三河島事故は防止できたのではと悔やまれる事故でした。

なお、この事故の241列車には1985日航ジャンボ機事故で犠牲となった幼少時代の坂本九氏が母親の疎開で笠間に向かうため乗車しており、当初は桜川に転落し、多数の犠牲者を出した客車に乗っていたそうですが、事故直前に別の車両に移って難を逃れたそうです。

***************************************

当夜のD51651号機は蒸気で発電する主発電機が故障しており、非常用電池で灯火を点灯させて走行する状態で前照灯は10W程度の明るさのため乗員は下山総裁を轢断した瞬間は気づかなかったそうです。また、出発前には田端機関区停泊中の蒸気圧が機関助手が点検すると規定の10キロの1/3ほどに下がっており、発車前30分間、大慌てで石炭を焚き、蒸気圧上げに努めたそうです。そんなわけで、出発は予定の0時2分から8分遅れの0時10分になりました。

連結していた49両の貨車はすべて空車で、遅れを取り戻すには好都合でした。荒川の鉄橋を轟音を立てて渡り、鉄橋から400メートル先の東武電車のガード下で綾瀬駅の信号機を確認するため機関助手が身を乗り出した瞬間、レールに敷いてあるバラスがパチパチと機関車の底板に当たる音が聞こえました。綾瀬を過ぎて、金町にかかるころには8分の遅れは完全に解消していました。江戸川鉄橋を渡り、松戸駅に着く手前で、機関車全部右側レールとの間で火花が散るのを機関助手が見つけました。

午前1時、我孫子駅で機関車を調べると、最前部の排障器が曲がっているため、火花が出ていたことがわかり、五反野ガード下でバラスのはじける音を思い出し、何か事故を起こしたと機関助手は直感しました。水戸着は3時49分で、ここでも車体を調べると排障器の曲がりだけでなく、機関車の底や貨車の車軸に多量の血痕が見つかり、人身事故を起こしたことがはっきりし、列車は運転中止で車庫入りとなりました。

遺体発見時の様子

7月6日午前0時25分ごろ、上野発松戸行き国鉄常磐線最終電車2401Mが足立区五反野南町の東武伊勢崎線ガードとの交差地点を通過中、小雨に濡れた線路上に死体らしきものを発見、同26分、綾瀬駅に到着後、ホームにいた駅助役にそのことを伝えました。

160701 2016/7/1 小菅駅のホームから常磐線方向
正面の高層アパートの裏手を常磐線、TXが走っていますが、あの当時は恐らく、小菅の駅からも常磐線が見渡せたと思います。尤も、小菅駅は伊勢崎線浅草~西新井間が電化された1924年10月1日に開業しましたが、その後、休止状態にあり、1950年11月15日に復活開業しているので、事件当時は休止していたと思われます。

駅助役は改札係、駅手を呼び、カンデラを持たせて現場に急行させ、2人は小菅刑務所裏の警手詰所から電話で首と手足のない胴体がレール横に転がっており、肌が白かったので女の死体らしいという報告をよせました。

駅助役は現場から戻った2名の報告をそのまま上野保線区北千住分区長に伝え、午前1時5分、分区長は副分区長とともに徒歩で現場に向かい、死体の着衣を調べているうちに『日本国有鉄道 総裁 下村定則』の名刺が多数散乱していること、そばに東武鉄道優待乗車券の入ったパスがあるのを発見しました。

彼らは急報の必要性を感じ、西新井署南町駐在所に連絡、

死体は首、胴体、右腕、左脚、右足首の5つの部分に轢断されており、鼠色の上着、白ワイシャツ、チョコレート色の靴、時計などが線路に80mに渡って散らばっていました。

午前4時ごろには検視が終了、国鉄関係者も現場に駆けつけ、午前5時半から現場検証が開始され、下山は午前0時19分に現場を通過した869貨物列車によって、轢かれたものと断定され、当該貨物列車からは衣類の切れ端、肉片、血痕などの付着が確認されました。

自殺説 対 他殺説の論争

遺体の司法解剖は事件の発生場所から東京大学医学部法医学教室が担当することになり、当時の主任の古畑植基教授が指揮を執りました。

東大は回収された遺体に認められた傷に生体反応が認められないことから、下山氏は死後轢断されたと判断しました。一方、現場検証を担当した東京都監察医務院の八十島信之助医師は、血液反応がないのは当夜の雨によるものであるとの根拠から自殺と判断していました。さらに、慶應義塾大学医学部の中館久平教授も生体轢断を主張しました。

これらの結果、下山事件は自殺説と他殺説で国会、医学界で大きな論争となりました。目撃情報からは下山総裁があたかも列車に飛び込んで自殺したようにもみえますが。遺体は事前に血が抜かれ、失血死した後、轢断されたのではないかと遺体の検証を行った東京大学医学部(死後轢断説)、それに異を唱えた慶応大学医学部(生体轢断説)の間で論争が起きました。

また、衣類(ワイシャツ、下着、靴下)に多量のヌカ油が付着していたにも関わらず、上着や靴下内部には付着がみられず、衣類に4種類の塩基性塗料が付着していたこと、足先は完全に保存されているにも関わらず、革靴は轢断されているなど不自然な点が多く見つかりました。また轢断地点から下り線路の上野方面に向かって数百メートル枕木上に血痕があることもルミノール発光で見出されています。

ただ、当時はDNA鑑定技術などもなかったため、これらは下山総裁の血液かどうかも同定できないまま、捜査は1950には打ち切られ、196476に殺人事件としての公訴時効が成立しました。

その後の推理

他殺説

松本清張  「日本の黒い霧」米陸軍防諜部隊
朝日新聞記者 矢田喜美雄 「謀殺下山事件」

諸永裕司 「葬られた夏」

森達也 「下山事件(シモヤマケース)」
柴田哲孝「下山事件 最後の証言」

他殺説は当時の日本における共産党の躍進、労働組合運動の活発化を問題視したGHQ傘下の諜報機関、G2のキャノン機関?がわざと事件を起こして、こういった勢力を潰そうとした陰謀説が主張されています。

自殺説

毎日新聞記者 平正一 「生体れき断」

佐藤一 「下山事件全研究」

自殺説は人員整理を行わなくてはならない立場からの逃避、ストレス回避行動による自殺と考えられています。

結局、この事件は迷宮入り事件となっており、1949年夏に起こった国鉄がらみの3事件、三鷹事件(715)、松川事件(817)とともに戦後3大鉄道ミステリ事件とされています。

個人的には占領軍が関係した謀略だったのでは(他殺説)と思いますが、アメリカの公文書公開でもない限り、日本政府が何か今後、この事件に対して情報を示すことはまずないと思います。関係者も殆ど鬼籍に入っており、こういった戦後に頻発した怪事件が謎のまま忘れ去れらて行くのは決して良いことではないと感じます。

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2015年11月27日 (金)

公園保存車輌 番外編 刈谷市 宮城道雄供養塔

全国の公園等に保存されている車両をみて歩くシリーズ、今回は前回、前々回の刈谷市交通児童遊園のすぐそばにある、作曲家、箏曲家の宮城道雄氏の供養塔訪問の記録です。

140812_6 供養塔入り口 2014/8/12 刈谷

右手に東海道本線が走り、名鉄三河線のガードもあり、左手の県道48号線に面して刈谷市交通児童遊園があります。

宮城道雄は1894年(明治27年)4月7日、神戸に生まれ、8歳で失明し、生田流箏曲の二代菊仲検校、二代中島検校に師事し、11歳で免許皆伝、1919年作曲家としてデビュー、1929年には「春の海」が世界的な評価を得ました。1937年、東京音楽学校(現東京藝大)教授に就任、1956年6月25日未明、大阪公演に向かうため、付き添いの義理の姪(内弟子)と夜行急行「銀河」に乗車中、刈谷駅付近で午前3時頃、昇降ドアがら列車外に転落し、病院に収容されましたが、同日午前7時15分に死去しました。

140812_3 供養塔の標識

わたしも、中学校の音楽の授業で「春の海」を習った際に、宮城氏のことを知り、母から列車から転落し、亡くなったと聞かされ驚いた記憶があります。当時の客車列車がドアは手動で開け閉めし、特に夜行列車の場合、目の不自由な方でなくても転落事故の危険性は十分にあるなと感じていただけに、宮城道雄氏の転落事故を初めて聞いたときは大変ショックだったのをよく憶えています。

今回の刈谷訪問の際に、供養塔も是非訪れてみようと思いました。

140812_4

三十宝塔の供養塔 1957年5月 刈谷市、宮城会、日本盲人会の三者によって建立されました。

当時の急行「銀河」13列車は東海道本線全線電化開業前のダイヤで
東京を20:30に出発、横浜2105、静岡2358と停車し、名古屋には0321、岐阜0358、米原0507、京都0640、大阪0735と停車し、神戸着は8:25でした。

1_2

(こちらのサイトに急行「銀河」の列車番号、時刻、編成の情報があります。)

140812_8 名鉄三河線が東海道本線をオーバークロスするガード付近

13列車が当時、この場所を通過したのは午前2時35分頃で、高瀬忠三氏の「悲しき記録」によると、午前3時半頃現場を通過した下り貨物列車1189列車の田中二三機関士が「三河線のガード付近に轢死体らしきものを見た。」と大府駅に紙片を落として連絡し、刈谷駅員数名が現場に向かって、ガード下の線路脇に横たわる宮城氏を見つけたそうです。発見時は意識もあり、駅員と言葉も交わされたそうです。

140812_5 目の不自由な参拝者のため点字で記された案内塔もあります。

現場は直線で、列車から振り落とされるようなカーブではなく、かつポイントなどもありません。13列車の20分後には急行「安芸」が通過し、貨物列車も通過していましたが、発見されたのは40分後の1189列車となりました。転落後、1時間20分ほど現場に救出されるまでいたことになります。

住所の確認で、留守宅には5時過ぎに、列車には5時7分の米原到着前に連絡が行き、二等寝台に就寝中だった付き添いの牧瀬喜代子氏と連絡が取れ、米原から急遽引き返されたそうです。

宮城氏の方は大まかな縫合で約25針、大小6カ所の裂傷でしたが、意識はしっかりしていたそうです。頭部の処置と輸血などをして、6時を回った頃から、容態が急変し、7時15分に帰らぬ人となりました。(詳細な記述はこちらに)。

140812_2
こちらは交通守護と読めます。 妻の宮城貞子氏によって建てられたもののようです。

列車から転落の真相については未だに解明されておらず、警察による公式記録では自殺となっているとのことです。

命日の6月25日は遺作の歌曲「浜木綿」にちなんで浜木綿忌と呼ばれ、供養塔で営まれる法要に多くの方々が参詣されるそうです。

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2015年2月23日 (月)

San Diego Lindbergh空港でのSpotting 2 Aloha Airlines

サンディエゴ空港でのSpotting,前回はHawaiian 航空でしたが、今回もホノルルを拠点としたAloha航空です。アロハ航空といえばなんといってもBoeing 737の屋根が一部吹っ飛びながらも無事着陸した243便事故を思い出します。

N739al_boeing_73773a_cn_cn28500_ln4 N739AL Boeing 737-73A cn 28500 ln 414 2008/1/18 SAN

その歴史はHawaiian航空の競争相手として出版家Ruddy F. Tongg, Srがチャーター航空会社Trans-Pacific Airlinesとして.1946年7月26日創業しました。第二次世界大戦の生き残りのDouglas C-47 (DC-3)一機でホノルル~マウイ、~ヒロを結びました。すぐにAloha航空という名前に改名し、4機体制での運航になりました。1949年2月21日には定期航空会社としての免許を取得し、6月6日定期便としての初フライトを行いました。

N739al_boeing_73773a_cn_cn28500_l_2 N739AL 同機がSan Diegoに就航していた頃がAloha Airlinesの絶頂期だったのかも知れません。

1952年にはTPA-The Aloha Airlineと改名し、Convair 340を導入しますが、業績は伸びませんでした。1958年、再びAloha Airlinesに改名し、1959年4月15日Fairchild F-27 turboproを導入し、業績は向上しました。1958年、経営権はHung Wo Chingに移り、1987年には倒産の危機に見舞われますが、同族会社として存続させました。

1961年1月3日、創業以来活躍してきたDC-3がリタイアし、1963年には3機のVickers Viscountを導入し、ピストンからターボプロップ時代になります。さらに1966年4月16日にはBAC One-Elevenを導入し、F-27は1967年6月に、1971年10月にはViscountがリタイアし、ピュアジェット時代になります。その間にBoeing 737-200も2機導入しています。

1984年にはMcDonnell Douglas DC-10-30をリースし、5月28日からホノルル、グアム、台北間にAloha Pacificの名前で運航しますが、Contimental Airlinesとの競争には勝てず、1985年1月12日に運航停止を余儀なくされます。同年、Boeing 737 Quick Changeタイプを導入し、昼は旅客便、 夜は貨物便として活躍します。1986年2月にはホノルルとクリスマス諸島のキリマチを結ぶ便を運航し、世界初のETOPS 737運航航空会社となりました。

N751al_boeing_7377q8_cn_30674_ln151 N751AL Boeing 737-7Q8 cn 30674 ln 1511 2008/1/18 SAN

2000年2月14日、メインテナンスサービスを開始するとともに、ETOPS証明を得た737-700が導入され、ハワイ各都市、ホノルル、カウルイ、コナからオークランドに就航さらに、オレンジカウンティ、サン・ディエゴ、サクラメント、レノ、ラスベガスへと就航します。

しかし2000年代はAloha航空にとっては試練の年代となりました。2001年の9.11、2003年のSARSの流行や燃料費の高騰で経営が悪化し、2004年12月30日、連邦倒産法第11章適用を申請せざるを得なくなります。2008年3月20日、再度、適用申請の事態に陥り、同月31日、全旅客便の運航が停止されました。

*Aloha航空 243便事故*

1988年4月28日、ヒロ国際空港からホノルル国際空港に向かっていたN73711 (Boeing 737-297 cn 20209 ln 152) (機体愛称Queen Liliuokalani)が同日8回目の運航でマウイ島付近高度4000ftを飛行中に機体前方左側の外壁が破れ、与圧空気が流出し、爆発的減圧で前部座席から主翼近くまでの18ftの天井外壁が吹き飛ばされました。この一連の出来事で事件発生現場付近の通路を歩いていたCAのランシングが機体の穴から吸い出され行方不明となりました。

左エンジンの燃料制御ケーブルが破壊され、同エンジンは停止しましたが、幸い油圧系統は破壊されていなかったため、操縦系統は維持されており、マウイ島カフルイ空港に緊急着陸しました。機体の破片や猛烈な風圧を受け、65名が重軽傷を負いましたが、行方不明のCA以外は無事生還しました。

事故原因は機体の老朽化による金属疲労の蓄積、マルチサイトクラックの発生を見逃していたためにクラックが拡大して風船が割れるように機体が破壊したためと公式見解で発表されています。事故機はハワイ諸島内短距離路線に就航しており、事故当時世界で二番目に飛行回数の多い737でした。

実はこの事故の約7年前、1981年8月22日、台湾で起きた遠東航空103便事故、作家の向田邦子さんが犠牲になった事故でもありますが、も非常によく似た原因の事故と考えられています。こちらは、先日、Trans Asia AirwaysATR-72-600が離陸直後にエンジントラブルで墜落した台北・松山空港発高雄行き遠東航空103便Boeing737-222(B-2603 cn19939/151)乗員6名、乗客104名、が離陸後10数分で高度22000ftを巡航中、空中分解し、110名全員が死亡した事故でした。

事故機は1969年製造でUnited Airlinesが使用した後、遠東航空に売却されたまだ新しい機体でしたが、海洋に近い、台湾島内で頻繁に離着陸を繰り返し、塩水の影響で与圧隔壁の腐食が進行しており、貨物室の外板が与圧に耐えられなくなり、破壊が進行して空中分解に至ったと考えられています。事故の2週間前にも与圧が抜けるトラブルを起こしており、応急修理を終えてラインに復帰していました。今こうして、2つの事故を振り返ってみると事故機のLine numberが151と152で続いていることにも驚きを感じます。

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2014年8月18日 (月)

あの悲劇から1ヶ月 MH0017

わずか4ヶ月の間に同じ航空会社の、しかもこれまで殆ど全損事故を起こしていなかったBoeing 777が連続して墜落するという極めてショッキングな事故から一ヶ月が過ぎました。

マレーシア航空17便は乗客283名、乗員15名が搭乗し、アムステルダムからクアラルンプールに向かっており、当初ウクライナ上空は高度35000フィートで通過するフライトプランを提出していましたが、ウクライナ空域に進入後、ウクライナ航空交通管制(ATC)より高度33000フィートの飛行を指示されました。同便はウクライナを横断後、ロシア領内に入る50kmほど手前のドネツィク州グラボベ(Hrabove)村近郊でモスクワ時間17時15分頃、消息を絶ちました。墜落現場はロシア国境から40kmのトレーズ(Torez)市付近でした。

9mmrd_boeing_7772h6er_cn_28411_ln_8 9M-MRD Boeing 777-2H6ER cn 28411 ln 84 2001/9/3 DMK

2001年9月にタイに出張した際にバンコク・ドムアン国際空港で撮影していた事故機9M-MRD

機体はBoeing 777-2H6ER cn 28411 ln 84 (9M-MRD)で1997年7月17日に初飛行し、7月29日にマレーシア航空に新造機として納入されています。エンジンはRolls-Royce Trent 892で座席配置はビジネスクラス35席、エコノミークラス247席です。事故までに43,000時間、6950サイクルの飛行を記録しています。

乗客乗員全員の死亡が確認されており、298名の搭乗者のうち、約2/3の193名はオランダ国籍、43名がマレーシア、27名がオーストラリア、12名がインドネシア、10名がイギリス、他となっています。この中にはメルボルンで開催予定の第20回国際AIDS学会の参加者が含まれており、当初の100名と報道されていましたが、後で6名と修正されました。

今年3月初旬頃、いわゆるクリミア危機の勃発以降から大韓航空、アシアナ航空、英国航空などはウクライナ東部の上空を避けて飛行するようにしており、国際民間航空機関(ICAO)は4月に各国政府に危険を通達しており、アメリカ連邦航空局も同様の通達を出していました。それでもアエロフロート、ルフトハンザ、シンガポール航空他の航空会社はマレーシア航空の事故が起きるまではウクライナ東部を飛行していました。

クリミア危機勃発以来、これまでにも何機かのウクライナ空軍機が撃墜されています。イギリスで行われている回収されたフライトレコーダーのデータ解析からミサイルのようなものが炸裂し、機体に穴が開き、爆発的な減圧が起きたことまでは分かったようですが、交信記録と照らしあわせても、操縦士らが墜落直前まで異変に気付いた様子はなかったようです。仮に炸裂したミサイルがBuk地対空ミサイルであると分かったとしてもそれを誰が発射したのかは事故機側の調査からは分からないと思います。

この事故が果たしてロシアからウクライナに運び込まれ、親ロシア派によって発射されたによるものなのか、まさに国際紛争まっただ中の現場で起きた事件のため、欧米を中心とする西側諸国の見解とロシア側の見解が大きく対立しており、さらに将来、1983年9月に起きた大韓航空機撃墜事件のように当事者が真相を告白することがあるのか現時点では全く分からない展開となりつつあります。

2014/9/10 追記: Dutch Safety Board は2014/9/9 この事故の予備調査報告書を公開しました。34ページからなるPDF版はこちらからダウンロード出来ます。

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2014年8月14日 (木)

ニューヨーク州イサカへ その4 ORDとEWRでスポッティング8 Boeing 757

それにしても今年の夏はお盆の週の直前には台風の襲来とそれに伴う水害、さらにその台風が去っても列島上空は前線が停滞し、スカットしない天気の毎日のようですね。

さて、先週末からの京都、滋賀、岐阜、愛知方面の旅行で中断しましたが、あと少し、7月末のアメリカ出張での話題を続けようと思います。

前回の記事でUABoeing 767を紹介致しましたので今回はその兄弟機であるBoeing 757に行こうと思います。旧NW現DLなどが成田に乗り入れているので日本でも全く見ない飛行機ではありませんが、Boeing旅客機シリーズの中では日本の航空会社が全く導入しなかったタイプで日本では比較的マイナーな類の旅客機ですね。

N559ua_boeing_757222_cn_26657_ln_46 N559UA Boeing 757-222 cn 26657 ln 467 1998/6/24 LAX

三代前のBoeing 757 デビュー当時の塗装を纏ったN559UA

N567ua_boeing_757222_cn_26673_ln_49 N567UA Boeing 757-222 cn 26673 ln 497 2002/8/8 DEN

N597ua_boeing757222_cn_28750_ln_841 N597UA Boeing757-222 cn 28750 ln 841 2008/7/6 LAX

Boeing 757はBoeing 727の後継機という位置づけで1981年から2004年まで1050機が製造されました。Boeing社の旅客機としては最大のナローボディ(単一通路)旅客機です。

技術的には2人乗務のグラスコックピットとターボファンエンジンを備え、空力抵抗を抑制できるスーパークリティカル翼型の設計が採用された点が特徴です。開発はワイドボディ双発機のボーイング767と同時並行で行われ、757と767でシステムの共通化が図られ、パイロットの操縦資格も共通化されました。

N18119_boeing_757224_cn_27561_ln_75 N18119 Boeing 757-224 cn 27561 ln 753 1998/6/24 LAX

こちらは統合される前のコンチネンタル航空時代のN18119

シリーズとしては胴体長の異なる-200と-300がありますが、-200が1983年に最初の引き渡しが開始され、その後-200と共通のボディの貨物専用(-200PF)、貨客混載タイプ(-200M)が登場し、1999年になって-300が登場しています。エンジンはPW2000もしくはRR-RB211シリーズが選択可能でした。

キックオフカスタマーはイースタン航空とブリティッシュエアウェイズで両社ともロールスロイス製のエンジンを選択し、Boeing旅客機としては初の米国製以外のエンジン採用によるローンチだったそうです。イースタン航空がB757のローンチに加わったのは同社が多数のシャトル便を運航していたニューヨークのラガーディア空港はワイドボディ機の乗り入れを認めていなかったためでした。

ワシントン州のレントン工場で最終組み立てが行われ、1982年1月13日にプロトタイプ(RB211仕様)がロールアウトしています。初号機から5号機までが飛行試験に供され、同年12月21日にアメリカ連邦航空局から形式証明が交付されました。最初の引き渡しはイースタン航空に対して1982年12月22日に行われ、PW2037仕様の機体は1984年11月5日にデルタ航空に対して行われました。ln1の機体はBoeing社がN757Aとして登録所有しており、未だ現役(エンジンはPW2037)、ln2は-225 N501EAとしてイースタン航空が受領し、NASAを経て、現在はStarflite International CorporationがN144DCとして所有しています。

ヨーロッパでキックオフカスタマーのBA以外にモナーク航空エアーヨーロッパが早期に運航を開始し、デビューは成功したものの、直接競合する機種はなかったものの販売は伸び悩んだ時期もありました。ひとつにはマグダネルダグラスMD-80などのナローボディ機が価格的に安かったことも理由に挙げられています。その後、ノースウエスト航空が20機の大量発注を行い、さらにアメリカの空港の騒音規制の強化でアメリカン、UAなどが大量発注を行ったことで短距離国内線、大陸横断路線で主力機の地位を確立しました。

ヨーロッパではチャーター系の航空会社がBoeing757を好んで採用しました。Duesseldorf空港をベースとするLTUもそのひとつです。中国の航空会社も多く採用しています。

N595nw_boeing_757351_cn_32995_ln_10 N595NW Boeing 757-351 cn 32995 ln 1036 2006/6/03 DTW

-300タイプの胴体伸長バージョン デルタ航空に統合されたノースウエスト航空が導入していました。

そして1990年代後半の1996年9月2日、コンドル航空からの12機の発注で胴体延長モデル-300のローンチがなされ、これは-200のローンチからなんと18年後のことでした。-300は-200の胴体を7.11m延長し、定員を20パーセント増加させてものでした。1998年5月31日にロールアウトし、1000年3月19日にコンドル航空が初就航させています。しかし、このタイプの販売はアメリカンやUAなどの財政事情の悪化もあって低調であり、他のチャーター会社も興味を示さず55機で製造終了となりました。

N17122_boeing_757224wl_cn_27564_ln_ N17122 Boeing 757-224(WL) cn 27564 ln 768 2014/7/26 EWR

いつものようにUA Fleet Deatail and Histroyのサイトを見ると
UAとしてBoeing757の最初の機体はln 241の機体 元N501UAでアメリカ大手エアラインの中ではかなり遅い方です。トータルで162機のBoeing 757を運航しており、その構成は

・現役機   
122機   -222 WLありなし    60機  PW2040 もしくは PW2037
       -224  すべてWLあり  41機  RB211-535E4B 
              -33N      〃       12機   RB211-535E4C
              -324   〃        9機     RB211-535E4C
  -33NはATA: アメリカントランスエアーが受領した機体 

・他社へ売却済みの機体
10機   すべて -222
    1機はBoeing社へ、8機はFEDEX、1機はCargo Aircraft Managementへ
・ストア
26機    -222 および -222WL  
   14機はFEDEXへ売却予定
・スクラップ済み    -222(WL)
   2機 元N517UA cn 24861 ln 310
          元N532UA cn 25072 ln 366
・事故等
 N591A(-222 cn 28142 ln 718)で2001年9月11日の同時多発テロでニューアーク空港発サンフランシスコ行、93便として運航中に4名のテロリストにハイジャックされ、ピッツバーグ州Shanksville北方3.8kmに墜落し、乗員7名。乗客37名が死亡しました。    

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2014年3月14日 (金)

マレーシア航空 370便事故について 3/13 現時点で明らかになっていること

拙Blogではこれまでにも留学中の西ベルリン・テーゲル空港で撮影した旅客機関連の話題を扱った記事で、航空機事故の話題も何回か取り上げて来ました。

消息不明が報じられて数日が経過するにもかかわらず、機体の残骸すら発見されていないのが今回、触れるマレーシア航空370便の事故です。すでに英語版・日本語版のWikipedia等が公開されており、機体の情報も分かりましたので、私も整理しておこうと思い記事にしました。情報は英語版Wikipedia MH370の情報を参考にしています。

1)フライト状況について

マレーシア航空370便(MH370)、コードシェアで中国南方航空748便(CZ748)は2014年3月8日午前0時41分(現地時間)、マレーシアのクアラルンプール国際空港を離陸し、中華人民共和国北京国際空港に午前6時30分(現地時間)到着予定の便で227名(15カ国)の乗客、15名の乗員が搭乗し、離陸約1時間後、高度35000フィート、速度471ノットで飛行、位置は北緯6度55分15秒、東経103度34分43秒の地点で突然交信が途絶え、トランスポンダーの信号も消えました。

交信を受け持っていたSubang航空管制所は1時22分に交信の途絶を認識し、マレーシア航空に2時40分に通報したそうです。マレーシア航空が情報を発表したのは7時24分でした。機体に搭載してあるACARSではなんの機器的トラブルは送信され無かったとのことです。エンジンデータは30分ごとに製造会社のロールスロイスのオフィスに自動送信されており、トランスポンダー信号が途絶えてからも4時間は送信が続いていたとのことです。

マラッカ海峡から南シナ海に渡る7万平方キロに及ぶ範囲を12カ国が捜索していましたが、残骸等は発見されておらず捜査当局はマラッカ海峡の北西のアンダマン海まで捜索範囲を広げたと発表しています。

機体の不具合による墜落なのか、あるいはテロ等によるものなのかも現時点では不明であり、航空機から自動的に発せられるエンジンデータの記録は離陸後5時間も飛行状態を示しており、航空機の場所を特定するのを一層困難にしているようです。

9mmro_cn_28420_ln_404_b7772h6er_200

9M-MRO cn 28420 ln 404 Boeing 777-2H6ER     2003/1/2 NRT

昔、成田で撮影した写真を調べてみたら2003年の正月にRWY34Lエンドで離陸スタンバイするところを撮影していました。

2)機体に関する情報

Boeing 777-2H6ER cn 28420 ln 404
9M-MRO

2002年5月14日 初飛行 5月31日マレーシア航空が受領

エンジン: ロールスロイス Trent 892 双発

座席:282名: ビジネスクラス35名 エコノミークラス 247名

総飛行時間 53,460時間 7525サイクル

これまで大きな事故に遭遇したことはありませんでしたが、2012年8月上海浦東国際空港でタキシング中に他の機体と衝突して翼端のウイングチップを破損したことがありました。最後のメインテナンスチェックは2014年2月で今回の事故の12日前でした。

Boeing 777は安全な機体として知られており、これまでに全損事故は
2008年1月にロンドン・ヒースロー空港でBA38便が燃料系統の凍結でパワーロスに陥り、空港手前に不時着した事故(47名負傷)(G-YMMM)と、まだ記憶に新しい2013年7月6日アシアナ航空214便のサンフランシスコ空港の着陸時の事故(3名死亡、181名負傷)(HL7742)、2011年7月29日にカイロ国際空港でエジプト航空機がコックピットから出火して全損した事故(SU-GBP)の3件でした。

3)乗員・乗客に関する情報

機長    53歳 1981年入社 飛行時間 18,365時間
副操縦士 27歳 2007年入社 飛行時間   2763時間
乗員は全てマレーシア国籍

227名の乗客の内、152名が 中国国籍 38名がマレーシア国籍 他に13カ国の方々

現時点で捜索活動が続いていますが、残骸等の確認情報は3月13日夜の段階ではないようです。

この事故で犠牲になられた方々のご冥福をお祈り致します。

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