2024年12月26日 (木)

2023年12月26日 松本城を見学

これまでにも何度か松本の街は訪問しておりますが、松本城を訪れたことはありませんでした。そこで2023年の冬シーズンの青春18切符を利用し、日帰りで松本往復を敢行しました。

このシーズンの18切符5日間分は、12月16日の宇都宮(ライトレール乗車の旅)、同29日大船(湘南モノレール乗車の旅)、2024年1月4日~6日名古屋の旅)の往復に利用しました。

JR各社は2024年冬シーズンからこれまでの青春18切符のシステムを改定し、連続した5日間、もしくは3日間の利用、従来のように複数の人間が同じ行程に使用することも不可能にしました。これに対して、私ももちろん反対の署名をしましたが、多くの方々が反対意見を表明されましたが、JR東日本はその署名の受け取りも拒否したというニュースがありました。

231226 2023/12/26 松本駅東口(お城口)のまち巡り案内図

松本城は松本駅の北北西の方向、直線距離にして約1km先にあります。

231226-3 駅から歩いて約15分で到着します。

信濃の国の守護であった小笠原氏の館として現在の松本市に林城が築かれ、その支城のひとつに深志城(現在の松本城の昔の名前)がありました。1550年8月27日、甲斐の武田氏の侵攻で林城、深志城は落城、武田氏が松本盆地を支配しますが、1582年には甲州征伐で武田氏も滅亡、本能寺の変で織田信長も死去すると、小笠原氏が旧領を回復し、城主に、城の名前も松本城となりました。1590年、秀吉の小田原征伐で石川数正が入城し、その子孫康長らにより、天守、城郭、城下町が整備されました。

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江戸時代になると松本城主は石川氏、小笠原氏、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏、そして再び戸田氏と代わり、明治時代になると版籍奉還などで城は廃棄、天守も競売にかけられ、解体の危機にさらされますが、難を逃れ、1903年から1913年には明治の大修理、1930年には国の史跡に、1936年には天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5棟が国宝に指定、1950年から1955年にかけて解体復元工事がなされています。

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天守は5重6層で壁は下部が黒漆塗の下見板、上部は白漆喰仕上げとなっており、下見板は雨水をはじき天守の壁を守り、50年の耐久性が確保されていました。日本に現存する天守12城のうち、5重6層の天守としては最古のものとなっています。もともとこの城の天守は関東の徳川家康を監視するための戦略拠点としての役割も持って造られました。一方。江戸時代に造られた辰巳櫓、月見櫓(赤い欄干の)は江戸初期の平和な時代を象徴する構造物です。

231226-2_20241225092001 天守台西方には北アルプスの山々が見えます。左から槍ヶ岳、常念岳、横通岳、東天井岳、大天井岳

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天守台から

231226_20241225093501この朱塗りの橋は埋橋(うずみばし)と呼ばれ1955年に架けられたそうで、埋門へ通じることからこの名になったそうです。松本城の堀のアクセントになっています。

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2024年12月25日 (水)

2023年晩夏の関西旅行 城巡り編 その3  岸和田城

2023年8月31日の城巡り、3か所目は岸和田城でした。

長浜城、彦根城と滋賀県の城巡りをしたので、3か所目は安土城あたりにしておけば良かったと今になって思うのですが、彦根から岸和田はいくら新快速~大阪~環状線~新今宮~南海線と乗り継いでも2時間以上かかる距離で、おまけに彦根駅で貨物列車の撮影などに時間をかけていたものですから、岸和田駅に到着したのは午後4時を回っていました。

230831-edit_20241224101601 2023/8/31 コントラストが低くて見にくいと思いますが、岸和田駅と岸和田城の位置関係を示した「岸和田わくわくナビマップ」

岸和田城というくらいだから南海本線の岸和田駅が最寄り駅だろうと思い込んでましたが、地図でよく調べると同じ南海本線の蛸地蔵駅の方が近いことがわかりました。


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駅から歩くこと約15分、漸く石垣、堀が見えてきました。


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城の門はどこかなと思いつつ、堀に沿って歩くと櫓や天守閣が見えてきました。


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案内板を見つけ、入場時間をみると「入場は午後4時まで」、残念ながら時間切れでしたが・・・

南北朝時代(延元元年/建武3年)の湊川の戦いで楠木正成の部下として活躍した武将の岸和田治氏とその一族により、1400年ごろまでに岸和田の地が開拓されました。その後、15世紀後半に現在の岸和田城から約500m南東に山城が築かれました(岸和田古城)。しかし16世紀初頭には放棄されました。その後、信濃泰義により、現在地に移築され、1581年から1582年にかけての羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、豊臣家の一門衆で秀頼の傅役の一人だった小出秀政が1585年に和泉岸和田城3万石に封ぜられた際に5重の天守が整備されました。
大坂冬の陣では松平信吉が城主となり、1619年からの松平康重の時代に総構えと城下が整備されました。以後、紀州の監視の役割から家康の妹の子である阿部宣勝から阿部氏代々が城主となっていました。1871年の廃藩置県で廃城となりました。

Dsc06818 連結式望楼型3層の天守、1954年に復興 築城時の天守は前述のように5重の天守でしたが、1827年11月20日の落雷で消失しました。
手前には国の名勝に指定されている重森三玲の設計で1953年に竣工した砂庭式枯山水庭園、諸葛孔明の八陣法をテーマに大将・天・地・風・雲・鳥・蛇・龍・虎と石組みをした八陣の庭があります。

今回は訪れた時間が遅かったため、天守に登ることもできませんでしたが、またの機会に再訪し、八陣の庭を天守から眺めてみたく思います。

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2024年12月24日 (火)

2023年晩夏の関西旅行 城巡り編 その2 彦根城

長浜城を約1時間見学した後は長浜駅まで戻り、彦根へ。新快速、といっても米原以北は各停ですが、約30分で到着します。もっとも米原で9分の長時間停車も含めてなので走っている時間は20分程度です。

230831-edit_20241223081201 2023/8/31 彦根市 観光案内図 この地図は左下の矢印の先が北となっています。

彦根駅に関しても2014年8月に近江鉄道の車両基地、あるいは近江鉄道ミュージアムを見学した時に来ているのですが、彦根城を訪れるのは今回が初めてです。駅前の大通りを琵琶湖のほうに向かって500mほど進むと外堀らしきものが見えてきます。

Dsc06742家康の側近として江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次、本田忠勝、榊原康政、井伊直政を俗に徳川四天王と呼んでいますが、井伊直政が関ヶ原の戦いの軍功により、近江国北東部に18万石を封じられ、石田三成の居城だった佐和山城に入場したのが1600年でした。直政は佐和山城の古さを嫌い、琵琶湖畔に近い磯山に居城を移すことを計画していましたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年に死去しました。直継はまだ幼少であったため、家老の木俣守勝が家康と相談し、1603年彦根山に彦根城の築城を始めました。
 彦根は東国と北陸、西国へ通じる街道、そして琵琶湖の水運の結節点であったため、家康は尾張藩、越前藩など7か国12大名に手伝いを命じる天下普請で築城が行われました。1606年には2期工事が完成、天守完成と同じころ直継が入城、1616年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると彦根藩により第3期工事が行われ、御殿が建造されました。彦根城の築城に当たっては昨日の長浜城など廃城になった城の資材が流用され、彦根藩内の城は彦根城だけとなり、譜代大名の筆頭に位置する井伊氏は一国一城令を守る手本を示したといわれています。

Dsc06745 二の丸佐和口多聞櫓

連郭式平山城で天守のある本丸、御殿が設けられた二の丸、三の丸と北側に山崎曲輪が配置されており、天守および附櫓、多聞櫓は国宝、城郭は特別史跡に指定されています。1874年の廃城令で陸軍省管轄の施設になりましたが、老朽化で民間売却されるところを明治天皇の彦根行幸の際に保存が決定、皇室付属地彦根御料所となり、最後の彦根藩主井伊直憲に下賜され保存となりました。さらに太平洋戦争においても1945年8月15日夜に米軍が彦根市を夜間爆撃する予定でしたが同日正午の終戦の詔勅で爆撃を免れました。

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藩主などの馬が繋がれていた馬屋で城内に馬屋が残されている城は他にありません。重要文化財に指定されています。

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天秤櫓と廊下橋

難攻不落な彦根城の象徴とも言われる構造物で侵入して来た敵に対して天秤櫓の急な石垣と戦時には落とされる廊下橋が待ち受けています。

Dsc06767 3階3重の屋根で構成される天守 天守は大津城から移築とされ、国宝に指定されています。

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天守の内部 天守は18万石時代に完成しており、直継の弟、直孝は大坂冬の陣の戦功で秀忠、家光、家綱の3将軍の執政となり、3回の加増で30万石になりました。さらに幕府領5万石の預かりを合わせ、彦根35万石と言われました。

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2024年12月23日 (月)

2023年晩夏の関西旅行 城巡り編 その1 長浜城

2024年6月25日から、途中に別の話題を挟むこともありましたが、阪急電鉄、嵐山電鉄、大阪メトロ、JR西日本、JR貨物、近江鉄道、そして南海電鉄と関西圏の様々な鉄道会社の車両を見てきましたが、最後は城巡りの話題で終わらせようと思います。

2024年8月31日、早朝から西宮北口駅で阪急神戸線を撮影した後、梅田へ、JR大阪駅から新快速で長浜に向かいまずは長浜城を見学しました。長浜には2014年8月長浜鉄道スクエアを見学した際に来ており、今回は2度目の訪問になります。長浜城は琵琶湖に面した豊公園内にあり、南北に走る北陸本線長浜駅から西へ歩いて数分の距離です。

230831-2edit 2023/8/31 JR長浜駅と豊公園、長浜城歴史博物館の位置関係

230831_20241222110701 2023/8/31 JR長浜駅から見た長浜城の復興天守閣
現在の天守閣は東京工業大学名葉教授故藤岡通夫氏の設計指導により1983年に再興されたもので2層の大屋根に望楼をのせた初期天守の様式で天正期の城郭を想定したものです。

この城は1573年、羽柴秀吉が姉川の合戦、小谷城攻略で浅井長政を滅亡させた功績として主君の織田信長から浅井氏の旧領を拝領し、それまでの浅井氏の居城だった小谷城(伊部山にあった山城)の資材や竹生島宝厳寺が1558年の火災からの復旧に際して浅井長政が寄進した材木を流用し、築城した城で秀吉にとってみれば人生最初の城でした。城の完成は1577年頃とされ、城下町は小谷城下(湖北町伊部)からそっくり移し、それまで今浜だった地名を信長の名から一字拝領し、長浜に改名しました。長浜は秀吉の領国・城下町経営の基礎を醸成した地とされています。
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1582年の本能寺の変で明智光秀に織田信長が殺害されると長浜城も明智に加担した山本山城主の阿閉貞征に占領され、羽柴氏の係累は近隣のてらに逃れました。阿閉は山崎の戦いに参戦し、しかし明智光秀が羽柴方に敗戦したことで、阿閉も捕縛され、一族すべてが処刑され、長浜城も羽柴氏の支配下に戻りました。

1586年の天正地震で城は全壊、当時の城主山内一豊の息女が死亡、側方流動で城の一部が琵琶湖に水没しました。1606年、内藤信成・信正が城主に、1615年の大坂の陣で内藤氏は摂津高槻に移封となり、長浜城は廃城となりました。資材の大半は彦根城の築城に流用されました。

Dsc06700 2023/8/31 天守から西方を見ると琵琶湖越しに彦根城の天守閣がみえます。

Dsc06708 復興天守の内部構造

1983年に犬山城や伏見城をモデルにした復興天守が建設され、市立長浜城歴史博物館として運営されています。

Dsc06709 Dsc06712 2023/8/31 琵琶湖湖岸の豊公園にある太閤井戸の碑

1939年の夏、旱魃の際に、湖中から発見された井戸跡で厚さ3cm程の木製の井戸枠が湖中から確認されました。

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2024年5月 9日 (木)

2023年夏と2024年冬の名古屋旅行 その42  大坂の陣以降の尾張徳川藩と名古屋城の歴史

尾張徳川藩の初代藩主、徳川義直は慶長5年11月28日(1601年1月2日)家康の9男として大坂で生まれました。幼名を五郎太丸といい、4歳で甲斐国の藩主を拝命、実際の領国経営は甲府城城代平岩親吉と甲斐国奉行大久保長安が担当し、本人は生母於亀とともに駿府城に居住しました。7歳のとき、家康の4男で28歳で病没した松平忠吉の遺領を継いで尾張国清洲城に転封となりました。

1610年2月、家康は甲斐、信濃、および東海道の要として名古屋を重要拠点と考え、天下普請で名古屋城の築城を決断、1615年4月、完成した名古屋城にて義直と浅野幸長の娘・春姫の婚儀が行われ、家康も駿河から参加している最中に、大坂にて豊臣方挙兵の報が入り、そのまま大坂へ出陣し、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしました。

名古屋城完成に伴う城下町の整備(清須越し)は1612年頃から、義直が名古屋城に移った1616年までに行われ、5万人を超える住民と社寺3社110か寺が移動しました。

義直は当初、1615年に完成した本丸御殿は居住していましたが、1617年に二之丸御殿が完成すると1620年に移り、本丸御殿は将軍上洛時の御成御殿とされました。1626年には大御所となった秀忠が、1634年には3代将軍家光が上洛の際に立ち寄っており、この際には大々的な改築がなされました。その後、1865年、14代将軍家茂が上洛の際に1泊しています。

家康は1616年に亡くなりましたが、その遺産が9男義直、10男頼宣、11男頼房に譲られ、尾張、紀伊、水戸の後に言う「徳川御三家」が出来ます。石高は尾張家61万9500石、紀伊家55万5000石、水戸家25万石(後に35万石)で尾張家は御三家筆頭に位置付けられていました。表高(公称知行高)では尾張と紀伊の差は少ないですが、尾張家には木曾上納といわれる木曾の山林から木を伐り出す権利も付与されており、その収入も加えると100万石近かったと言われています。御三家には宗家継承権があり、将軍家の跡取りがいなくなった際に御三家から出すというものでした。しかし徳川15代将軍振り返ると、7代将軍家継が8歳で死去し、宗家が断絶した際に八代将軍として紀伊家から吉宗が養子として入り、以後は紀伊家の血筋が14代家茂まで続きました。15代将軍慶喜は水戸家の出ですが、慶喜の場合は御三卿のひとつである一橋家に養子入りした後、将軍家を継承しており、水戸家が直接将軍家を継いだわけではありません。

今は徳川御三家といえば尾張、紀伊、水戸ですが、江戸時代初期は将軍家、尾張家、紀伊家を御三家と呼ぶことがあり、尾張家、紀伊家、駿河家(秀忠の3男忠長の系統、1代で終わり)の3大納言家を御三家と読んだ時期もあったそうです。さらに家光の子の甲府家(綱重、綱豊の2代、松平左馬頭家)および舘林家(綱吉、松平右馬頭家)が石高・家格的に匹敵することから御三家と同位に位置付けられた時代もありましたが、駿河忠長の改易、舘林綱吉が5代将軍、甲府綱豊が6代将軍(家宣に改名)でこれらの徳川家は消滅したことで水戸家が格上げされ、後世に伝わる御三家になったそうです。

将軍家と尾張徳川家の間でも後継ぎ問題等でいろいろぎくしゃくしたことは何回かあったそうで、1631年大御所秀忠が病気になった際に義直と頼宜が揃って江戸に見舞いに向かった際に家光が叔父二人を大磯で止めた事件があります。当時、家光に子供は無く、義直は家光より4歳年長で、すでに光友がおり、家光としては将軍の後継のことで叔父らが口出しをするのを嫌がったのではないかと言われています。さらに1633年家光が大病を患った際に義直は再び、名古屋から江戸に見舞いに向かいますが、老中酒井忠勝の命で品川で止められます。これ以来、幕閣たちに「尾張藩は本家横領の下心あり」との印象を持たれたようです。義直の後、光友、綱誠、吉通、五郎太、継友と藩主が代わりますがいずれも早逝しています。特に吉通は自立後、6代将軍家宣の信任が厚かったのですが、25歳の若さで急死してしまい、五郎太も3歳で藩主になったものの2か月で急死、ここで直系は途絶え、吉通の弟、継友が藩士に迎えられ、1716年7代将軍家継が8歳で病没し、将軍家の後継ぎ候補として、26歳の継友、紀伊家の吉宗33歳、水戸家の綱條61歳が候補になりますが、年齢が高い綱條がまず除外され、実績の点で吉宗が8代将軍に選ばれました。

継友は39歳で麻疹で亡くなり、7代藩主となったのが宗春でした。宗春は八代将軍吉宗の緊縮財政、質素倹約をすすめる享保の改革に対抗して積極的な経済繁栄政策を推し進め、江戸在府中は吉原に通い、三浦屋の春日野太夫を身請けし。尾張藩の下屋敷に住まわせ、参勤交代で帰国する際には着飾らせ行列に加えたそうです。城下町名古屋では歌舞音曲を奨励、そのため全国から芸人が名古屋に集まり、芝居小屋が急増、遊郭も名古屋だけが賑わっていたそうです。これが名古屋を大都会に押し上げ、現代にも続く七五三、結婚式、嫁入り道具などにみられる名古屋の派手好き文化の祖となっていると思われます。藩の士風は乱れ、財政は悪化、「これを黙って見過ごしていては幕府の威信にかかわる」と1739年宗春の謹慎蟄居が命じられます。宗春自身、緊縮財政に転じますが蟄居で藩主は支藩から宗勝が迎えられ、宗春時代に抱え込んだ赤字減らしが行われ、さらに宗勝の2男宗睦の治世40年間で財政が立て直されたことから宗睦は「尾張中興の祖」と言われています。さらにこの時代には藩校明倫堂が創設され、藩士のみならず町人、百姓の聴講も許可されました。宗睦以降の藩主は義直の直系ではなく、一橋家からの斉朝、将軍家からの斉温、斉荘、田安家からの慶蔵、高須松平家からの慶勝、茂徳と養子が続きました。

18世紀中期には名古屋城の天守台石垣の不同沈下が進行し、特に西北隅の沈下は2尺にもなったため、1752年から大修理が始まりました(宝暦の大修理)。天守台の石垣の積みなおしも行われました。

慶応3年(1867年)3月、15代将軍徳川慶喜が京都二条城で「大政奉還」を申し出、同年12月討幕派の力を背景に、「王政復古の大号令」が発せられ、将軍職は廃止、天皇を頂点とする明治政府が成立しました。尾張藩も1868年、名古屋藩、犬山藩、今尾藩に分裂しました。1869年1月、版籍奉還が行われ、旧大名は藩知事に任命され、尾張徳川家16代当主の義宣が名古屋藩知事に任命されますが、1870年には名古屋藩は高須藩と合併となり、義宣の実父で元藩主の義勝が藩知事となりました。このときに天守の金鯱が無用の長物で天守から降ろされ東京に運ばれ皇居内に御物として収納されました。1872年には廃藩置県が断行され、名古屋藩は名古屋県となり、さらに三河、知多を中心とする額田県と合併して愛知県となりました。当時の明治政府は反乱や一揆に備えるため名古屋城全域を陸軍用地に指定し、陸軍東京鎮台第三分営が置かれ、本丸御殿が司令部、天守が仮兵舎として使用されました。1873年には廃城令「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」が出され、名古屋城は陸軍が使用していたため取り壊しを免れましたが、二之丸、三之丸などの建物は取り壊されました。その後、名古屋城と姫路城は1879年9月に陸軍省、内務省、大蔵省により、永久保存されることが決まりました。

1892年10月28日濃尾地震(マグニチュード8.0)で本丸の多門櫓、西之丸の榎多門が大破、天守は倒壊こそしませんでしたが床板が平坦でなくなり、漆喰壁が剥がれ落ち、本丸御殿は壁貼り付け絵やふすま絵に亀裂が入るなどの大きな被害が出ました。

Dsc00128 Dsc00130_20240508135101 2024/1/5 乃木文庫 陸軍時代に弾薬庫として建てられたもので名古屋鎮台に赴任経験がある乃木大将にちなんで命名されています。

太平洋戦争末期の1944年12月、名古屋への本格的空襲が始まり、1945年3月には本丸御殿の障壁画を御深井丸の乃木文庫に保管、金鯱を地中に埋める工事も手配されましたが、5月14日の空襲で天守、本丸御殿が焼失し、おおくの国宝建造物が失われました。

Dsc00139_20240508135001 2024/1/5 鉄筋コンクリート造りの天守閣

戦後まもなく天守閣再建を望む声が上がり、1954年頃から民間での募金活動も始まり、名古屋市は1957年6月、鉄筋コンクリートによる天守閣再建を決定、1959年10月1日、再建されました。ただ、同年9月には伊勢湾台風が襲来しており、名古屋は大きな被害を受けていたことから完成式は関係者のみで行われました。

Dsc00154_20240508135401 愛知県体育館 ドルフィンズアリーナ 三之丸地区にあり、毎年7月にはここで大相撲7月場所が開催されます。

2018年5月、築59年を経た天守閣は耐震性能が低いため閉館となり、同年6月には本丸御殿が復元完成し、一般公開が始まりました。木造で復元する天守閣お竣工は2022年12月と当初予定されていましたが、その後、コロナ禍などで遅れており、現時点で予定は明記されていません。

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2024年5月 8日 (水)

2023年夏と2024年冬の名古屋旅行 その41  名古屋城の石垣

城郭建築において石垣は建物の基礎としての役割のみならず、堀の構成など極めて重要な役割を担っています。名古屋城の石垣は本丸、二之丸、西之丸、御深井丸(おふけまる)を中心に築かれており、三之丸を含む城全体の総延長は約8.2km、高さは天守台以外は5~13m、天守台は東側が約12.5m、西側と北側が約20m、総面積は約6万5千平方メートルと推定されています。

名古屋城の大半の石垣が積まれたのは慶長15年(1610年)のことで、この頃は信長の安土城築城以来、蓄積してきた石垣積技術が最高潮に達した時期でした。

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Dsc00091 2024/1/5 二之丸付近の石垣 乱積、切込積 隅角部は算木積

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東門付近 布積 切込積

石垣は松などに由来する杭と胴木を土台木にした上に根石を並べ、盛土の外側に裏込(栗石)を被せ、表面に築石を積んで行くもので、裏込と築石の間には介石を築石の間には間詰石を詰めて積んでゆきます。裏込(栗石)は水はけを良くし、築石にかかる圧力を緩和して崩落を防ぎ、地震などの際の揺れを吸収するクッションの効果があると考えられています。築石は野面、打込接、切込接の3種のの加工の度合い、そして、乱積、布積の2種類の積み方があり、計6通りの種類がありますが、名古屋城の石垣は打込接、乱積が主体となっています。石垣の角の部分(隅角部)は角石と呼ばれる直方体状に加工された大きな石を長辺を互いに振り分けて積む算木積と呼ばれる工法が使われています。

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Dsc00104 Dsc00125_20240507135701 加藤清正自らが石曳の号令を、熊本の穴太による天守台の石垣 北側約20m

Dsc00137_20240507135901 天守と小天守を結ぶ橋台

石垣を特徴づける構造上の特徴が石垣の勾配(ノリソリ)で各地の石垣職人(穴太、あのう)が各家の秘伝として他に技術が漏れるのを嫌ったようで、名古屋城の場合でも天守台の石垣構築では肥後国国主加藤清正が単独で担当し、築造中は天守台を幕で囲って技術の漏れるのを嫌ったそうです。

石材は天下普請に参加した大名がそれぞれ愛知、岐阜、三重、さらには瀬戸内海沿岸、遠くは九州北部の唐津から花こう岩、凝灰岩、砂岩等を運搬しており、それぞれの石には大名家の区別のため刻印、刻紋が刻まれました。

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2024年5月 7日 (火)

2023年夏と2024年冬の名古屋旅行 その40  名古屋城の歴史

現在、「なごや」という地名に関して「名古屋」という漢字が使われていますが、古くは那古野、那古屋、奈古屋、名児耶といった漢字が使われていました。那古野城を最初に築いたのは駿河一帯を支配していた今川氏の一門の今川名児耶伊賀守高重で永正12年(1515年)のこととされています。今川名児耶氏の後継が途絶え、今川本家から今川氏豊が那古野城を中心とした尾張の領主として送り込まれますが、後年、清須城を拠点とする清須織田氏の家臣だった織田信秀(信長の父)に奪取されてしまいます。その後、織田信長は幼少期を那古野城で過ごし、弘治元年(1555年)には清須城に移り、那古野城は織田家家臣によって守られていたそうです。

信長による天下統一の試みが本能寺の変で潰え、1590年に秀吉が天下統一を成し遂げますが、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍が徳川家康率いる東軍に屈し、徳川の天下となった1609年、家康は豊臣方との戦いを強く意識し、大坂城に攻め込むための、あるいは大阪からの大軍を食い止めるための拠点を那古野の地に考えました。当時、清須城(この頃には清洲城に)がもっとも中心的な城でしたが、五条川による水害の危険性、拡張性の問題、東海道との位置関係などから清洲以外の場所に対豊臣軍防衛の拠点を築くべきだと考えました。そこで白羽の矢が立ったのが那古野城でした。

家康が関ヶ原の戦い以降、天下普請として加納城、膳所城、福井城、二条城、彦根城、丹波篠山城、丹波亀山城を息のかかった大名に築城させて大坂城包囲網を形成して来ましたが、1610年には福島正則や加藤清正といった豊臣恩顧の大名も加わり、名古屋城の築城が始まりました。城下町も清洲から移転の際に当初は城と町が包み込まれる総構(惣構)とする構想でした。それが大坂の陣の終了、豊臣家の滅亡、家康の他界で総構とはならず現在の形の原形ができたとのことです。

名古屋城の完成が家康を強気にさせ、豊臣秀頼との二条城での会見でも豊臣上位・徳川下位の序列が逆転し、方広寺鐘銘事件(国家安康、君臣豊楽)を経て、大坂冬の陣に至ります。

まさに名古屋城の完成と名古屋城下町の構成は豊臣時代から徳川時代への時代の移り変わりを象徴しています。

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2024/1/5 名古屋城は名城公園の南側約半分を占めています。

Img610 「特別史跡 名古屋城」パンフレットから名古屋城案内図

本丸の一帯を縄張と言いますが名古屋城の場合、ほぼ正方形をしているのが特徴です。

Dsc00089 2024/1/5 地下鉄名古屋城駅から金シャチ横丁の前を通り、東門から二之丸へ

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右手に二之丸庭園を見ながら東南隅櫓(辰巳櫓)に向かいます。

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辰巳櫓 非公開で内部に入ることは出来ませんがかつては武具等が収納されていた櫓だそうです。

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本丸表二之門を通り、本丸に入ると目の前に五重五階、地下一階、石垣の高さ19.5m、天守本体の高さ36.1m、総高55.6m、18階建てのビルに相当する層塔型大天守が見えてきます。

Dsc00115_20240506102601 ただ残念なことに現在、大天守は耐震工事中のため入場は不可能でした。

Dsc00113_20240506103101 名古屋城といえば金の鯱が有名ですが、最初に城の天守の屋根に鯱を飾ったのは織田信長の安土城で、以降、秀吉の大坂城、伏見城、家康の名古屋城、駿府城、江戸城と続きました。名古屋城の金鯱は慶長小判金1940枚相当を使い、檜の寄せ木で造った芯の表面に金の板を打ち付けたもので総重量は雄雌合わせて215.3kgありました。現在の金鯱は二代目で銅板の型に金箔を貼り付け、樹脂塗装がされており、総重量は雌雄合わせて88kgです。

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2024年5月 6日 (月)

2023年夏と2024年冬の名古屋旅行 その39 名古屋城見学は地下鉄「名古屋城」駅から

「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」というのは伊勢音頭の一節ですが、名古屋を何度も訪問しておきながら名古屋城を見学していないのは大きな誤りだと感じ、2024年1月の名古屋旅行では名古屋城を見学することにしました。

1965年10月15日、名古屋市営地下鉄名城線の栄~市役所間が開通し、1971年12月20日、同線は大曾根まで延伸しましたが、「市役所という駅名は名古屋城の最寄り駅であることをアピールできていないのではないか」「駅名を名古屋城」にすべきではないかという議題が市議会に上程されたのは2017年3月10日のことでした。それからおよそ6年後の2023年1月4日、市役所という駅名は名古屋城に改称されました。

220804 2022/8/4 上前津駅の地下鉄名城線路線図、「名古屋城」という駅はなくまだ久屋大通と名城公園の間の駅は市役所

240105_20240505090801 2024/1/5 駅名標 駅名改称から1年と1日 旧駅名は副駅名「市役所・県庁」として残されました。

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2024/1/5 ホームの柱には名古屋城最寄りの出口は7番出口であることを案内する標識が
240105_20240505091301 2024/1/5 名古屋城駅 2022年10月27日に北改札口に設置された日本初となるレゴブロック製に「地下鉄案内図」

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240105_20240505094101 地下通路には名古屋城城郭絵図や本丸御殿の案内もあり、観光気分を盛り上げてくれます。

240105_20240505094401 7番出入口は名古屋城の高麗門を模した意匠となっています。

名古屋城駅(旧市役所駅)と栄駅(開業時は栄町駅)との間には名城車庫がありました。やがて車庫は名城工場となりましたが、路線が延長され車両が増えるにつれ手狭となり、名港車庫が拡張され名港工場となった時点の2004年10月1日に廃止されました。

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2023年11月 1日 (水)

2023年 北九州旅行 その61  松本清張記念館のあとは小倉城に

これまで何度か小倉には来ていましたが、街をブラブラ歩くことはあっても小倉城や松本清張記念館は訪れたことがありませんでした。いつ頃から始まったのかはっきり記憶はありませんが、最近は訪れた先で城巡りをするのもプログラムに組み込まれており、小倉では小倉城を見学することにしました。

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230602_20231031094001

2023/6/2 紫川と小倉城、奇妙な形の建物はリバーウォーク北九州

昨日の記事の地図にあるように小倉城は小倉駅の南西にあります。城の歴史は1264年から1274年の文永年間、緒方大膳が居城したことに始まるようです。その後、1569年(永禄12年)、毛利氏が築城し、高橋鑑種や毛利勝信が居城、1602年、関ヶ原の合戦の論功で細川忠興が豊前国1国と、豊後国速見郡、国東郡合せて39万9千石で入封となり、7年かけ唐造の天守閣を築城、城下町が整備されました。1632年、細川家が肥後国に移封となり、小笠原忠真が領主となり、幕末まで居城しました。1837年、本丸御殿、天守が火事で焼失、以後天守は再建されず、第二次長州征伐では長州藩の攻勢の前に、小倉藩は火を放って小倉城を焼却、熊本に退避し、1867年の和平後も領地は長州藩預かりとなりました。

230602-12 12-230602 2023/6/2 旧陸軍第12師団司令部 鉄門の跡

230602-12_20231031090801 大砲

明治以降は1875年に陸軍の歩兵第14連隊と同隊を管轄する歩兵第12旅団本部が松の丸跡に置かれ、1898年には陸軍第12旅団司令部庁舎が本丸跡に建てられました。1925年に、同庁舎は久留米に移転しましたが、太平洋戦争終戦まで小倉城跡は原爆投下のターゲットとなった軍都小倉の中枢でした。また陸軍の中央機関であった陸軍造兵廠が直轄する6機関のひとつであった小倉兵器製造所が1916年に開設され、1923年の関東大震災で被災した東京砲兵工廠の集約移転先として小倉工廠が1933年に完成、後に小倉造兵廠として小型戦車、小銃、機関銃、後者機関砲、砲弾、風船爆弾、化学兵器などが製造されました。このため、1945年8月9日のアメリカ軍の原爆投下では、小倉陸軍造兵廠が第一投下目標とされましたが、悪天候で爆撃航程に失敗したため、第二投下目標であった長崎市に投下されました。

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1959年、鉄筋コンクリート構造の天守閣が復元され、内部は郷土資料館として利用されることになりました。

城郭は本丸を中心に、南に松丸、来たに北の丸、それらを囲むように二の丸、三の丸、外郭が配された梯郭式平城で城の東側を流れる紫川を天然の堀として利用していました。創建時の天守は4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守でした。規模的にも熊本城(143坪)、姫路城(140坪)、豊臣大坂城(132坪)を凌ぐ209.25坪と壮大なものでした。

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焼失する前の天守の模型 他の城の天守に見られる破風と呼ばれる飾り屋根が無いのが特徴でした。1959年の再建時、破風が無いとサマにならないという意見が地元商工会から出され、大入母屋破風や千鳥破風・唐破風などの破風が追加され、史実とは異なる外観となりました。

230602_20231031094501 小倉城天守再建50周年を記念して誕生した公式マスコットキャラクター「とらっちゃ」(情報

230602-4_20231031094801 天守 東側から

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古くから小倉ぎおんさんと呼ばれる八坂神社

870年(貞観12年)4月に疫病が蔓延した際に企救郡の総鎮守として創建され、細川忠興が京都出身であったため京都の祇園祭を取り入れ小倉祇園社として小倉藩の総鎮守に

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2023年9月 1日 (金)

速報版 関西の旅 3日目 早朝の阪急西宮北口駅、続々と神戸線、各支線向け編成の出庫風景、8200Fに乗車、そして長浜城、彦根城、岸和田城

一昨日の十三駅での神戸線通勤特急の観察では8200Fは運用に入っていませんでした。再度、チャレンジと言うことで南方駅から京都線、十三駅乗り換えで5:04発の神戸線初電新開地行で西宮北口駅に5:18に到着。
阪急の場合、夜間の各駅の滞泊はあまり無いようで見ていると、新開地方面、今津線宝塚方面、今津方面、甲陽線、伊丹線向けの編成が次から次へと出庫して行きます。
10連の出庫に関しても、6:29に7110+6016が回送で神戸三宮に向かい、6:44には7107+8031が同じく神戸三宮に向かいました。それぞれ神戸三宮6:52, 7:07発の通勤特急(10連)となるものと思われます。そして6:48、西宮北口6:52発の通勤特急となる10連:7109+8200が4号線に入線しました。この編成が上り大阪梅田方面1番手の10連となり、7:07に大阪梅田到着、折り返し7:13発の神戸三宮行通勤特急となります。幸いにして8200Fも無事撮影出来ましたので、この通勤特急で大阪梅田に向かいました。

Dsc06605 Dsc06606_20230831212601 2023/8/31 西宮北口 10連の出庫(7110+6016)回送で神戸三宮方面へ

Dsc06622 Dsc06623 2023/8/31 西宮北口 10連の出庫 2本目(7107+8031)

Dsc06626 Dsc06627 2023/8/31 西宮北口 10連の出庫 3本目(7109+8200)

8200系問題が意外と早くクリア出来たため、新大阪を7:34に出発する287系くろしお1号(パンダくろしお、ことHC605編成が投入される運用)を撮影出来ることが分かりました。直ぐに思い浮かんだのは大阪環状線の野田駅での桜島貨物線からの列車の合流シーンでした。

Dsc06664 2023/8/31 野田 桜島貨物線から大阪環状線内回り線に転線中のパンダくろしおHC605編成

Dsc06841_20230831213601 2023/8/31 新大阪 2番線ホームで発車を待つパンダくろしお

ちなみにこの編成夕刻の和歌山行くろしお25号に投入されることもWEBサイトで告知されており、こちらは新大阪駅で撮影しました。

以前、鉄道撮影旅行と言えば公園等に保存されている蒸気機関車を巡る旅を合わせてしていましたが、最近は全国の城廻りもするようになり、今回は長浜城、彦根城、岸和田城を巡ることにしました。

野田にて287系パンダくろしおを撮影し、大阪駅に戻るとちょうど入線中だった野洲行の新快速がJR西日本が導入した新快速の有料指定席車両A-seat連結の編成でした。時間帯のせいなのか、関西人の気質のせいなのか、1両連結された青帯の車両(9号車)に乗っている人は殆ど無く、前後の車両はかなり混んでいました。車両はクハ222-1007でした。他にクハ222-1008、クモハ224-702等がAシート車に改造されているようです。JR東日本は2階建てグリーン車を新造して挿入する方式を採っているのに対してJR西日本は既存の車両を改造して対応と会社それぞれの方式のようです。

Dsc06669 Dsc06673 2023/8/31 野洲 Aseat車両 クハ222-1007

Dsc06834_20230831214301 Dsc06837

2023/8/31 新大阪 225系のAseat車 (クモハ224-702)

大阪から新快速で1時間40分(途中、野洲で乗り換え10分)で琵琶湖東岸の長浜に到着しました。長浜城は羽柴秀吉が初めて一国一城の主となり、築城した城で長浜の地名もかつては今浜でしたが、信長の長から長浜としたようで秀吉と縁の深い土地です。

長浜城を見学した後は米原、彦根と戻り、彦根城を訪れました。ここは徳川家と繋がる井伊家の城で山の上に築城され、かつ外敵の侵入に対して鉄壁の守りの城のため、天守閣の下に辿り着くのも、さらに天守閣の最上階に上るのも大変な城でした。

そして岸和田城はだんじり祭で有名な岸和田市にあり、城域に入ったときには4時半を過ぎており、タイムオーバーでしたが、天守閣の前にある八陣の庭を観ることはできました。

JR阪和線の東岸和田駅は城から離れているのでアクセスには新今宮から南海本線を使い、久しぶりに南海の車両を記録することが出来ました。

明日は新大阪発初電で出発し、東海道を上り、10時間程かけて東京に辿り着く予定です。

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