1976/3 米原へ DD50 その他
磐田でEF18を撮影した後、浜松までは各停の旅を続けましたが、このまま旅をしているといつ関西に到着出来るのかと思い、「飛び道具を使ってしまえ」ということで浜松から米原までは新幹線を使うこととしました。
米原で降りたのは、以前から新幹線で同駅を通過するたびに車窓から見えたDD50が気になっていたことと、東海道本線と北陸本線の分岐点で、自治体的には確か「坂田郡米原町」で新幹線の停まる駅では唯一の”町”だったと思いますが、鉄道の要衝として名を馳せた同駅で是非写真を撮っておきたかったからです。
まずはDD50について、
1953年から製造された我が国初の幹線用電気式ディーゼル機関車です。
エンジンはスイスのズルツァー社との技術提携により製造された、縦形(直立シリンダー)直列8気筒、直噴式で1,050ps(1時間定格)の8LDA25です。DF50形でも、三菱重工業が製造を担当した0番台に採用されています。
運転台が片側にしかなく、常に2両を背中合わせに連結して重連運転することを前提として製造されました。ちなみに、重連で使用した際の性能は、D52形・C62形蒸気機関車並みとされています。
1953年に1次車3両が新三菱重工業三原製作所で製造されました。電気部分は三菱電機が製造しました。性能上は問題ないことが確認され、1954年に2次車3両が同じく新三菱三原で製造された。1次車と2次車では車体形状が若干異なっており、2次車では前面排障器が車体と別部品になっています。
量産を見据えた設計ではありましたが、2両重連使用のため製造費が高くなり、軸重が重く、蒸気暖房装置を搭載していないために冬期の旅客列車の牽引には別に暖房車が必要となるなどの問題点があり、これ以後の製造はなされませんでした。
6両とも当初は敦賀機関区(現・敦賀地域鉄道部敦賀運転センター車両管理室)に配置され、北陸本線米原駅 - 敦賀駅間で使用されました。製造当初は「日本海」「北陸」などの急行列車にも用いられましたが、1957年にDF50形が製造されてからは主に貨物列車に使用されるようになりました。また、北陸トンネルが完成する前の杉津越えでは、DF50形ともども補機としても重用されました。その後、北陸本線の電化により富山機関区を経て米原機関区(現・米原列車区)に転属し、米原駅 - 田村駅間で直流電気機関車と交流電気機関車の中継に使用されましたが、1975年3月10日のダイヤ改正のころより休車が発生し、1977年12月26日付で全車廃車となりました。
なお、4号機は1957年ごろDF40形が改造工事を受けている間、四国に渡り、土讃本線(当時)で運用されていたことがあるそうです(以上、DD50に関するWikipediaの記事を参考にしました)。休車状態で、米原駅構内に留置されていたDD50 1+4
DD50 2号機他
米原機関区時代は日本初の交直接続区間である米原~田村間の中継に使用されていますが、この区間の歴史もかえりみると興味深いものがあります。
数週間前(11月初旬)にやぶおさまの掲示板(リンク http://www.geocities.jp/yabuubu/ から)で話題になっており、その時に私も中継の歴史を整理しておりますので、その時の記事をベースに書きます。
1957年 田村~敦賀 交流電化
ED70登場 1975年までに全車廃車
E10 米原機関区に転属 1962年廃車
D51も活躍
1961年
EF70 登場 1987年のJR化前に全機除籍・廃車
1962年
ED74 登場 1968年よんさんとう改正で 日豊本線に
ED30 試作(EF55 3の主電動機と輪軸を使用) 1976年 廃車
(ED30は殆ど使われなかった模様で1966年には国立の鉄道技術研究所に)
E10に代わってD50が交直接続に
D51も引き続き担当
1962年 米原~田村 交流電化
1968年
D50からD51へ 「よんさんとう」が蒸機の終わり
DD50も交直接続役に 1977年全車廃車
DE10も交直接続役に
1991年 坂田~田村交直セクション => 長浜~虎姫
2002年 => 敦賀~南今庄へ
といった具合に同所における登場車輌は変化していったようです。
さらに米原駅では、米原機関区の所属のEF58 78号機が小荷物列車の牽引に備えてかウオームアップを行っていたり、
ワイパーの根元の形態が特徴的だった78号機
当駅でスィッチバックする名古屋~北陸を結ぶ特急「しらさぎ」や1975.3の改正で大阪発の雷鳥などが湖西線経由になったため)新たに設定された米原~北陸間の特急「加越」(の姿を記録しました。
米原駅でスィッチバックするクハ481-300番台先頭の特急「しらさぎ」
特急「しらさぎ」、同列車は当時6往復で、5往復が金サワの485系12連 5組 4本使用
TcM'MTsTsTdM'MTM'MTc で1往復が大ムコの581/3系12連 21組 17本使用
TncM'nMnTnTsTdM'nMnTnM'nMnTnc でした。
特急「加越」 同じくクハ481-300番台先頭
一方、特急「加越」は金サワ485系7連のミニ編成 TcM'MTsM'MTc 5組 3本使用で運用されていました。食堂車はさすがにありませんが、グリーン車はちゃんと付いた編成でした。
1975年3月のダイヤ改正以降、金サワには489系と485系の交直両用特急電車が配置されていましたが485系のクハはすべて300番台で、一度撮影したらokの金太郎飴状態でした。一方、「白山」「あさま」「雷鳥」に使用される489系はTcM'MTsTsTdM'MTM'MTcの12連が13本配置され10本使用の状態でしたが、クハは製造年代によってボンネット、貫通タイプ、非貫通タイプと形態が変化し、さらに上野方はEF63協調用にボンネットでは連結器が丸だし状態、600番台、700番台ではジャンパ栓が片渡りと非常にバラエティに富んだ構成でした。
急行「くずりゅう3号」206M 米原に到着
「くずりゅう」は加越の急行版のような列車で、TcM'Mcの3連を2編成連結したモノクラス6連でした。
運転開始は1966年12月のことで、新幹線との接続もよく、米原駅始発であることから着席が保障されるため利用客からの人気が高く、1968年10月には5往復(2往復は不定期列車)に倍増されました。1969年には米原駅 - 福井駅間の列車も設定されて6往復になり、1978年には全列車が定期列車になりました。1982年11月に「加越」の増発により1往復にまで減少し、1985年に廃止されました。(以上、Wikipediaの記事を参考に記述)。
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