千里丘、岸辺界隈での列車撮影 その3 特急「日本海」
千里丘や岸辺といった関西における鉄道撮影の聖地で撮った懐かしい列車シリーズ、今回は大阪と青森、一時期は函館を結んだ寝台特急「日本海」です。
2012/3/17 千里丘 定期列車としては上り最終となった列車
1924年7月31日、羽越本線の全通で日本海縦貫線が完成、神戸~青森間に急行列車(富山~青森間は普通列車)の運転が開始されました。1926年8月15日には全区間が急行列車に、1929年9月15日には運転区間が大阪~青森間となりましたが、戦局の悪化で1943年2月1日、廃止になりました。
1974/10/6 新大阪
米原経由の時代でEF58がHMを付けて牽引していました。
1975/3/6 大阪
20系の最後尾はナハネフ22と写真のようなナハネフ23のことがありました。
戦後、大阪と青森を結ぶ急行列車は1947年7月5日に運転を開始しました。1950年11月8日に「日本海」と命名、1968年10月1日のダイヤ改正で急行の名称は「きたぐに」となり、新たに青森運転所の20系客車を使用した寝台特急「日本海」が設定されました。
1976年ごろ 大阪
日本海の到着ホームの反対側には福知山線経由で出発待ちのキハ82系「まつかぜ」がおり、朝のゴールデンタイムでした。
1975年3月10日の改正では湖西線経由に、さらに14系客車に変更、早岐区の14系を共通運用としたため、長崎・佐世保から青森まで超広域運用が有名となりました。さらに季節列車としてもう一往復の「日本海」が宮原区の14系座席車で設定されました。1976年3月15日、「つるぎ」とともに宮原区担当の日本海は24系25形客車となりました。
1978年10月2日の改正では早岐の広域運用が解かれ、青森運転所の24系が担当になりました。1980年10月1日の改正では青森運転所担当の「あけぼの」2往復の24系化で日本海編成からオロネ24が抜き取られ、モノクラスになりました。1982年11月15日、上越新幹線開業のダイヤ改正では二往復とも宮原区受け持ちとなり、24系25形客車となりました。しかし、1984年2月1日の改正では一往復が青森の24系に戻りました。
1987年4月1日の分割民営化では青森運転所担当列車がJR東日本、宮原区担当列車がJR西日本に継承され、1988年3月13日の青函トンネル開業では1/4号が大阪~函館間運行となり、営業運転で青函トンネルを通過した最初の寝台特急となりました。夏季期間、1/4号にはマニ50荷物車が連結され、「日本海モトとレール」としてオートバイ輸送が実施されました。
2008/2/25 山科
冬場の強風で湖西線周りから湖東線、米原経由で運転されたこともしばしばありました。
2010/12/5 千里丘
TLE牽引機がローズピンクのEF81に代わって牽引したこともありました。
1998年8月22日、「日本海モトとレール」の運行は終了、2006年3月18日、1/4号の運転区間は大阪~青森に短縮、2008年3月15日、2/3号が廃止となり、1往復体制となりました。
2012年3月17日のダイヤ改正で定期運行が終了、2012年4月、8月、2013年冬期の多客期には運行されたものの、3月以降は列車の設定がない状態となっています。
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