1976/3 磐田へ EF18について
今回は1976年3月、大学2年の春休みの撮影旅行について書いてみます。1975年3月に「高千穂・桜島」に乗車して東海道を旅したとき、これで昼の東海道をゆっくり旅するのもお終いかと感じたものでしたが、1976年の春は東海道を磐田まで各停で行き、当時まだ現役で活躍していた浜松区のEF18を撮影、その後、関西まで足を伸ばして、阪和線で貨物列車牽引に活躍していた竜華区のED60, ED61, EF15, EF58を写し、さらに関西地区の旧形国電を撮影するといった旅をしてしまいました。当時まだ青春18切符はなく、関西周遊券を利用した旅でした。ちなみに青春18切符の登場は1982年春からとのことです。
まずはEF18の簡単な歴史から、
1949年、EF58の製造中にドッジラインの影響でその製造が中断された機関車5機がありました。32~34の3機と35,36の2機の計5機で、後の2機は35,36として無事EF58 となって世に出ましたが、32~34の3機は歯車比を20:83=1:4.15に改め(一般のEF58は28:75=1:2.68)、さらに死重15トンを搭載して貨物用機関車としてデビューしました。これがEF18です。EF58 35 36に関しては側窓が通常の機関車より2枚多い7枚窓の異形車体で活躍したことは有名です。本来なら貨物機の番号順ではEF17のはずで、さらにEF58の番号も欠番にはならないはずですが、欠番で残されたのは将来EF58に戻す予定であったのだろうと推察されています。
1951年3月に就役し、沼津~浜松間の貨物用機として沼津機関区に配属となりましたが、32、33は配属後すぐに福島第二機関区に転属となり、1952年3月までの2年弱の間EF16のピンチヒッターとして活躍しています。1953年11月に全機、浜松区に転属、1979年の廃車まで同区のヌシとして活躍しました。
形態的には1960年代半ばまでに33を除いて標識灯を埋込式に、先台車の担いバネを板バネ式からコイルバネへ、さらに33はよろい戸をビニロックフィルター式に変更しました。
以上の記事は「最盛期の国鉄車輌8 直流旧型電気機関車(下) (NEKO MOOK 1667)浅原 信彦 (著) 」のEF18の項の記事を参考に書いています。
私は「電気機関車 快走」でEF18が磐田~浜松周辺で貨物運用に就いていることを知り、是非この特異な経歴を持つ機関車を撮影しておかなくてはと思い、東海道各駅停車の旅でEF18撮影行を思いついた次第です。
東海道各停で活躍していた80系 クハ86200番台
当時の東海道は80系がまだ頑張っていました。磐田駅は結構、大きな貨物駅でEF18だけでなく、EF60の貨物列車も停車していました(ヨが2両の編成でしたが)。
EF60 24 貨物列車
そうかと思うとEF66牽引のコンテナ貨物が音もなく接近して通過していったり、
EF66 12号機 牽引のコンテナ列車
先日のEH10の特集で紹介した写真の様にEH10 27号機がモーター音の唸り音を聞かせながら通過して行きました。
一方で、お目当てのEF18は32号機がいつ動き出すとも判らない静かな状態で入れ換え作業行っていました。それではオーバーですが、人生でただ一度の機会に遭遇できたEF18の写真を。
磐田で無事EF18を撮影した後は浜松まで各停の旅を続け、そこから新幹線で米原へ向かいました。本当は米原まで各停で行くつもりでした。今だったら、豊橋まで行けば名古屋地区の快速列車の充実で大垣まではスピィーディに行けますが当時はそれがなかったもので、先の時間を考えて安直に新幹線を利用してしまいました。
あの頃は浜松駅で何気なく撮った0系新幹線ですが、今となっては結構懐かしいので、写真を載せておきます。
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